追悼連載~「コービー激動の41年」その57 予想もしなかった新監督の早期降板

[ 2020年4月13日 08:02 ]

2004年6月にレイカーズの新監督に就任したトムジャノビッチ氏(AP)
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 2004年6月。フィル・ジャクソン監督が勇退したあと新たに指揮官となったのは、ロケッツで2度ファイナル制覇(1994、95年)を達成し、2000年シドニー五輪で米国代表を率いたルディー・トムジャノビッチだった。当時56歳。膀胱がんとの闘病歴があったとは言え、まだ老け込む年齢ではなかった。

 大学とNBAでの選手としての実績はジャクソンを凌駕している。1967年にミシガン大に入学したトムジャノビッチは203センチのフォワードとしてプレー。大学時代はチームのリバウンド記録を塗り替え、オールアメリカにも選出された。1970年のドラフトでは全体2番目にサンディエゴ・ロケッツ(その後ヒューストンに移転)に指名されてNBA入り。過去のレイカーズの監督としては、ジェリー・ウエスト(1960年ドラフト全体2番目指名)に匹敵するエリートだった。だが“トムジャノビッチ政権”はあまりにも早く幕を閉じる。チームに残ったコービー・ブライアントにとっても思わぬ出来事だった。

 2005年2月2日。トムジャノビッチ監督は正式に辞任。「1カ月前から体調が悪くなった。自分はエネルギッシュな人間だと思っていたが、そうではなくなってしまった」。会見に姿を見せた指揮官は、ロケッツで連覇を果たした時のような笑顔をのぞかせることはなかった。膀胱がんとの闘病などで、すでにかなりの体力を擦り減らしていたのかもしれない。ストレスのかかるNBAの監督業。真面目でかつ繊細な性格が災いして、労苦に耐えられない自分を許せなくなったような感じだった。

 レイカーズはこの時点で24勝19敗。決して悪い成績ではなかったが、5年3000万ドルという高額契約を締結したトムジャノビッチ監督にとっては不本意な内容だったのかもしれない。なにより驚いたのはこのあと、監督代行としてレイカーズを率いることになったアシスタントコーチ(AC)のフランク・ハンブレン本人だった。当時57歳。ジャクソン前監督のスタッフの中でただ1人チームに残ったACだったが、まさか自分が監督になるとは思っていなかった。なにしろその2日前にトムジャノビッチと話したばかりで「彼は元気だったし、2人で一緒に笑っていたんだが…」と辞任のことなど寝耳に水。だから心の準備はできていなかった。

 実際、トムジャノビッチ監督辞任後のレイカーズはコービー・ブライアントの故障離脱も加わって低迷。結局、ハンブレンは監督代行となって10勝29敗という成績しか残せなかった。ACとしてはファイナル制覇を7回(ブルズで2回、レイカーズで5回)経験しているのだが、彼は最後までNBAの監督としての力量は示せなかった。

 レイカーズは2004~05年シーズンを34勝48敗で終了。最後は6連敗で幕を閉じ、西地区パシフィックではディビジョン最下位の5位だった。シャキール・オニールをトレードで放出し、新しい指揮官を迎えた始まったシーズンはまさに惨敗で終了。そして想定外だった新監督探しが再び始まったのである。

 実はこのとき有力な後任候補がいた。それが当時、マイケル・ジョーダンの母校でもあるノースカロライナ大(UNC)を率いていたロイ・ウィリアムス監督(当時55歳)だった。この年の4月4日にNCAAトーナメントの決勝でイリノイ大を75―70で下して優勝。カンザス大から移ってきて2シーズン目で勝ち取った自身初王座だった。カンザス大時代の1992年にはAP通信の年間最優秀監督賞を受賞。だから新監督の選考に苦しんでいたレイカーズにとっては喉から手が出るほど欲しい人材だった。

 そして同じUNC出身だったレイカーズのミッチ・カプチャクGMは非公式ながら熱心にウィリアムス監督を誘った。しかし断られること3回。「これはレイカーズのチーム記録だ」と同GMは苦笑しながら語ったが、母校の指揮官は最後まで頑として首をタテにはふらなかった。するともうそこにはあと1人しか候補がいなくなっていた。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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2020年4月13日のニュース