追悼連載~「コービー激動の41年」その23 休むことのない最初の夏 再起へ!

[ 2020年3月10日 09:00 ]

23歳のころの故ブライアント氏(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1997年5月12日の午前2時。ユタ州ソルトレイクシティーからカリフォルニア州ロサンゼルスに戻ったコービー・ブライアントは自宅で数時間、仮眠をとったあと練習ウエアに着替え、すぐさま近くにあるパシフィック・パリセーズ高校の体育館に向かった。その前夜には1勝3敗で迎えたジャズとのプレーオフ第5戦で延長の末に敗戦。第4Qの土壇場でデル・ハリス監督にチームの運命を委ねる「Go―to―guy」に指名されたが、14フィート(4・3メートル)のジャンプ・シュートを外してしまいそれが頭から離れなかった。

 「なぜミスしたんだ…」。その答えを探すために彼はシーズン・オフという名の休養を返上したのである。高校があるのはサンタモニカの北西5キロ。体育館に入るとコービーはすべてのドアにカギをかけた。生徒数が多い学校だったので、周囲の視線はどうしても気になってしまう。だから少し強引な行動に出た。リベンジのためのDAY1。華やかだったプレーオフとは対極にあるたった1人の練習風景だった。

 イタリアにいたころに熱中したシャドーボールが始まる。見えない相手をイメージしながらドリブル、ムーブ、シュート…。この日放ったジャンプ・シュートは数百本に達したという。しかも1日では終わらなかった。次の日もまた次の日も。チームメートが家族や恋人と時間を費やしているとき、コービーはひたすらストイックな生活を送った。

 個人トレーナーを雇い、1週間に6日、体を動かし続けた。1日休んだのは自分の意志ではない。トレーナーが「せめて1日くらいは」とブレーキをかけただけだ。しかも1日の練習時間は7~8時間。パラシュートを腰につけて負荷をかけるダッシュ、3時間のウエート、2時間のシュート練習、そして最後はUCLAで行われていたピックアップ・ゲームに飛び入りで参加した。凄いと思ったのは、この状況下でコービーがUCLAのイタリア語コース(夏期講習)を受けていたことだ。「最初の1週間は死ぬかと思った。でもじきに慣れていった。バッグの中にはいつも教科書とノートが入っていたよ」。教室ではいっさいの特別待遇を断った。19歳と言えば遊び盛りだと思うのだが、そんな一面はみじんも見せなかった。この無尽蔵なエネルギーこそがブライアントを支える基盤だったように思う。

 ただしその長所は、見方を変えると彼の短所にもなった。悔しい負け方をしたために「Work Hard」という言葉が頭から離れず、コービーはがむしゃらに動き続けた。そして周囲の状況が見えなくなった。それを象徴したのが2年目にもかかわらず参加したサマーリーグ。23日間におよんだ日程の中で平均20得点以上をマークしたのだが、元レイカーズのガードで当時アシスタント・コーチ(AC)を務めていたラリー・ドリューはサマーリーグで見せたコービーのプレーに納得できなかった。

 「あいつは自分のことしか見えていない。もっと視野を広くしてやらねば…」。そして未来のスーパースターに直接、不満をぶつけたのだ。「多少、言い争いになった」とドリュー。コービーは「彼はもっとスローダウンするように言ってきた。僕の闘争心が時としてチームを混乱させているとも言われた、自分としてはゲームを支配しようとしただけなんだが…」と当時を振り返っている。

 “事件”はこれだけでは終わらなかった。コンディショニング同様、技術面でも個人コーチを雇ったことが裏目に出た。しかもレイカーズと連携していないコーチだったためにトラブルになった。ジャンプ・シュートのフォームなどは改善する必要がなかったのに、そこをいじられてしまった。ジャズとのプレーオフ第5戦で決勝シュートを外したことがトラウマになっていたのかもしれない。そして2シーズン目の秋を迎えた。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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