×

「井の中の蛙」だった時期

[ 2008年7月18日 06:00 ]

為末が笑顔でインタビューに答える

 バリバリのスプリンターだった中学時代は、百&二百メートルで日本一に輝いた。高校でも四百メートルで高校新、四百メートル障害でジュニア日本新をマークした。転倒して予選落ちという屈辱は味わったものの、法大4年時の00年はシドニー五輪に出場。日本のトップランナーとして駆けてきた自負はあった。だが、世界を意識する目は、23歳の為末には備わっていなかった。

 「完全に井の中の蛙(かわず)でしたね。五輪で走れること自体に結構、満足感があった。シドニーも経験不足で失敗した」
 何かを変えないと世界では戦えない。01年6月の日本選手権で初優勝し、エドモントン世界選手権代表を決めると欧州遠征を決意。単位不足で卒業できず法大5年生になっていた青年はたった1人、自費で海を渡った。
 「エージェントに“試合に出たい”って、無理やり頼み込んで、レース3日前に急きょ出られることになった。陸連に黙ってこっそり航空券を買って行きました。陸連が僕と連絡取れなくて捜してたみたいだけど、怒られなかった。成績が良かったからかな」(笑い)
 第1戦のゴールデンリーグ・ローマ大会は6月29日。26日にレース出場が決まり、成田―ローマ間の往復航空券を購入して慌ただしく出発した。ローマで3位と好走したことで、7月2日のクロアチア・ザグレブ国際への出場も決定。復路の航空券を破り捨て、希望と不安に包まれてザグレブに向かう。単独初遠征は期せずして片道切符の決死行に姿を変えた。
 「帰りのチケットを持っていなかったんで、上の順位に入らないと日本に帰れなかった。この時、賞金をもらった経験がプロになることにつながった。走ることで金もうけができるんだ、と」
 48秒57で海外レース初優勝。ザグレブより格上大会のローマ3位と金額はあまり変わらなかったが、勝って得た約30万円に“初任給”の重みがあった。03年シーズン後に大阪ガスを退社しプロとして活動する原点となり、世界に斬り込む戦略と手応えをつかんだ。
 「目線が1つ上がった。日本で何番じゃなく、世界で何番っていう感覚になった。自信が出始めて、レースをコントロールしてやろうと思うようになったのも、この頃から。先行型になったのも、ザグレブでの成功体験があるからかもしれない」

続きを表示

2008年7月18日のニュース