森繁久弥さん大往生…天国で仲間たちと再会へ

[ 2009年11月11日 06:00 ]

日本を代表する名優逝く…10亡くなった森繁久弥さん

 日本を代表する俳優で大衆芸能の分野で初の文化勲章を受章した森繁久弥(もりしげ・ひさや)さんが10日午前8時16分、老衰のため東京都内の病院で死去した。96歳。大阪府出身。東宝映画「社長」「駅前」シリーズや舞台「屋根の上のヴァイオリン弾き」をはじめテレビやラジオ、さらには「知床旅情」などの歌を通して芸能界に大きな足跡を残し、多くの国民に愛された。11日、次男の建(たつる)氏(63)が都内で会見する。葬儀・告別式の日取りは未定。喪主は建氏。

 芸能界の巨星が堕(お)ちた。森繁さんは7月下旬に風邪をひき、発熱があったため検査も兼ねて入院。その後、平熱に戻ったが、たんが出るなどの症状が残ったため、そのまま病院で療養。落ち着いた日々を送ったが、この日朝、長女の昭子さん(69)や次男の建さん、孫、ひ孫たちにみとられて静かに息を引き取った。関係者によれば、テレビドラマの代表作「七人の孫」で演じた“おじいちゃん”をほうふつさせる穏やかな最期だったという。
 所属事務所の守田洋三代表は「あと3年で白寿なので、その(お祝いの)企画を進めていたのに…。ショックです」と東京・中央区にある事務所前で落胆した表情で語った。悲報に世田谷区船橋の自宅前には約70人の取材陣が駆けつけた。長年住んでいた一軒家を数年前にマンションに建て替え、3階で生活していた。マンション前の通りは「森繁通り」と呼ばれて、住民たちに親しまれていた。
 早大在学中から演劇活動を始め、39年にNHKにアナウンサーとして入局。旧満州(現中国東北部)の新京放送局に勤務した。戦後は映画界入りし、「夫婦善哉」や「社長」「駅前」シリーズなどで日本映画界の黄金期を支えた。舞台ではミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」を67年の日本初演から86年まで演じ、通算上演回数900回を記録。歌の世界でも活躍。自ら作詞・作曲した「知床旅情」は加藤登紀子(65)の歌でヒットし、自らも「森繁節」をたっぷりきかせた。
 80歳を超えても演技への情熱は衰えず、映画やドラマに出演。その間、勝新太郎さん、芦田伸介さん、三木のり平さんら、多くの後輩俳優たちに先立たれ、弔辞の中で、自らの長寿を嘆くこともあった。99年1月23日には長男の泉さんが肝臓がんのため58歳の若さで死去。葬儀では「泉よ、おまえは死んじゃ恥ずかしいんだ」とおえつし、親に先立った不孝をなじったこともあった。
 04年公開の映画「死に花」以後は表舞台に出ることは減ったが、07年に「森繁最後の作品」と銘打って一人芝居「霜夜狸」のDVDを発売。91年に録音された幻の作品を掘り起こしたものだが、発売に際して「今思うこと、それは死んだ倅(せがれ)のことなんです」と亡き長男にオマージュをささげた。03年から06年にかけては作家で演出家の久世光彦さんとの共著「大遺言書」シリーズを新潮社から出版。04年にこの功績で久世さんがスポニチ文化芸術大賞を受賞した際には会場の東京プリンスホテルに駆けつけ祝福。その久世さんも06年3月に死去。久世さんの通夜に参列したのが最後の公の姿だった。

 ◆森繁 久弥(もりしげ・ひさや)本名同じ。1913年(大2)5月4日、大阪府生まれ。名作「夫婦善哉」「社長シリーズ」など出演映画は約300本。ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」は上演900回、総観客動員165万人。故加藤道子さんと47年間コンビを組んだNHKラジオドラマ「日曜名作座」は通算2200回以上。91年には歌舞伎など古典演劇以外の俳優として初めて文化勲章を受章した。女性が大好きで、テレビ朝日「徹子の部屋」の第1回放送(76年2月)にゲスト出演した際に黒柳徹子の胸を触るなど“お色気ハプニング”も得意だった。

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2009年11月11日のニュース