フォーリーブス・青山孝史さんが肝がん死

[ 2009年1月29日 06:00 ]

肝がんで亡くなった青山孝史さん

 男性アイドルグループの草分けとして70年代に大活躍し、02年から活動を再開していた「フォーリーブス」の青山孝史(あおやま・たかし、本名城下孝行=しろした・たかゆき)さんが28日午前7時、肝がんのため都内の病院で死去した。57歳。佐賀県出身。今月16日にがんを公表したばかりだった。フォーリーブスは昨年4月から全国ツアー中で、青山さんは3月のラストライブまでステージに立ち続けるつもりだったが、その願いはかなわなかった。

 青山さんの容体が急変したのはこの日午前2時。同4時半ごろに吐血し、妻のめぐみさん(42)と長女(10)に見守られながら静かに息を引き取った。その後、病院に駆け付けたメンバーの江木俊夫(56)は「おい、早く起きろよって話しかけたけど一言も口をきいてくれなかった」と目を潤ませた。
 青山さんが肝がんを告知されたのは昨年10月中旬。メンバーには翌11月の末ごろに打ち明けたという。療養に専念することを勧められたが、本人の強い希望で以降も5回ステージに立ち、歌って踊った。都内の病院に入院して抗がん剤治療を受けながら、コンサートの時だけ病院を抜け出して出演した。
 闘病の支えとなったのはファンの声援と「一人娘が成人になるのを見届けたい」といういちずな思いだった。愛娘には「パパが元気になったらハワイに行こう」と約束していた。長女の10度目の誕生日だった19日には一時退院して、都内の自宅マンションで寿司とケーキを食べて家族水入らずの時間を過ごした。
 北公次(60)は「誕生日を祝って自分の中で別れを感じ取ったのかもしれない」。江木は「青山の頑固な性格は(長女に)DNAで伝わっているはず。父の死を乗り越えて、しっかり生きていってほしい」と話した。
 青山さんは67年10月、結成メンバーに代わってフォーリーブスに加入。楽曲制作も手掛け、秀逸な音楽センスで北と人気を二分した。江木は「あいつの声はフォーリーブスの声だった。背筋を伸ばして歌う姿がとにかく格好良かった」と悼んだ。酒好きで知られる青山さんが、最も好んで口にしたのはウイスキーだった。
 再結成を呼びかけたのも青山さんだった。おりも政夫(55)は「青山さんは楽屋で“オレは死んでも歌いたい”と言っていた。それだけ歌に命を懸けていた。ラストライブにも立たせてあげたかった」。がんを告知されて以降のライブは楽屋では横になることが多く、声もほとんど出ない状況だった。だがステージでは一転、往年の美声を響かせていた。
 全国ツアーは3月29日の東京・新宿区の東京厚生年金会館のラスト公演まで6公演を残す。3人で構成を練り直して青山さんのいない大きな穴をカバーする。江木は「あいつにしっかりしろよって言われないように頑張る。頼むよ、天国から歌ってくれ」と天を仰いだ。

 ◆青山 孝史(あおやま・たかし)本名城下孝行。1951年(昭26)8月10日、佐賀県生まれ。愛称はター坊。67年10月、当時小学生だった永田英二に代わり加入。芸能活動と受験勉強を両立し、2浪して日大芸術学部演劇学科に合格した。77年にタレントの嶋田じゅんと結婚。2児をもうけたがその後離婚し、めぐみさんと再婚。02年に芸名を「孝」から「孝史」へ改名した。

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2009年1月29日のニュース