「余命3カ月」青山さんを家族、メンバーが支えた

[ 2009年1月29日 06:00 ]

会見後に報道陣に頭を下げる「フォーリーブス」の(左から)おりも政夫、江木俊夫、北公次

 肝がんで死去した「フォーリーブス」の青山孝史さん。昨年9月の時点で医師からめぐみ夫人(42)だけ「余命3カ月」と知らされていた。「1日でも長く生きたい」と言い、1カ月以上長く生きた気持ちを支えたのは家族愛とフォーリーブスの存在。その後のジャニーズ事務所のあらゆるグループの原点となったフォーリーブスは、青山さんにとっても“母なる存在”だった。

 青山さんが肝がんを告知されたのは昨年10月中旬。知人によると、その1カ月前に検査を受けた時点で、めぐみ夫人は「もって3カ月」と医師から告げられていた。
 予測を超えて生き抜く姿に、江木俊夫は「コンサートに出たいという気力が病気を抑えているようだった」と明かした。関係者によると、02年にフォーリーブスの再結成をした時「一番望んでいたのが青山さんで、一番喜んでいたのも青山さんだった」という。
 コンサートでファンが喜ぶ顔を見て、楽屋で「泣けてきた」と目を潤ませた。そして1年限定だった活動が長期にわたったのも「青山さんがメンバーらに提案したため」(関係者)だった。
 再始動後も青山さんはヘアスタイルを当時と同じ「七三分け」に近い感じにセット。危険な香りがあった北公次に対し、清潔感ある正統派として人気を二分したイメージは決して崩さなかった。
 フォーリーブスは、ジャニーズ事務所が初代グループ「ジャニーズ」の解散後、メンバー構成から衣装、楽曲まですべてを計算して作り上げた。NHK紅白歌合戦に7年連続出場するなどビジネスとして初めて成功させ「ジャニーズ事務所のすべての原点」(元スタッフ)。当時、宣伝担当を務めたエイベックス・マーケティングの稲垣博司会長(67)は青山さんについて「売れても浮つかない銀行マンのようで事実上のリーダー的存在だった」と振り返った。
 エキセントリックな北、サービス精神旺盛でバランス感覚のあるおりも政夫、ヤンチャで進行がうまい江木。ジャニー喜多川社長の「グループはいろんな色が出せた方がそれぞれの個性も伸び、広がりが出る」という信念のもと築いたメンバー構成は、SMAPをはじめとしたあらゆるグループに受け継がれていった。
 ジャニー氏は自ら機材を運んでマイクロバスを運転し、姉のメリー喜多川副社長は徹夜で衣装を作り「親以上の愛情で手塩にかけて育てた」(元スタッフ)。青山さんは19歳で実母を亡くした。その際「私を母親だと思って」と言ってくれたメリー副社長の言葉は忘れなかったという。

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2009年1月29日のニュース