阪神ドラ6・富田 中学最後の公式戦“投手の才能”は開花した

[ 2022年12月8日 05:15 ]

阪神新人連載「七人のトラ侍」 ドラ6、三菱自動車岡崎・富田(上)

中学3年の滋賀大会で力投する富田蓮(提供写真)
Photo By 提供写真

 富田は幼い頃から兄の背中を追いかけてきた。2歳上の至温(しおん)さんが通っていた少年野球チーム・広幡クラブの練習に付いていくうちに、自然と野球の魅力にはまり、幼稚園年長の6歳の時に同じチームで本格的に野球を始めた。

 「小さい頃からずっと兄に付いて、野球に触れてきた。兄の存在は大きかった」

 当初は外野手。「捕手がやりたい」が本心だった。ところが左投げ左打ちで、使えるキャッチャーミットがない。小学1年のある日。幼心でついに“決断”した。右利きに変えるための行動に移した。食事で箸を右手に持ち替えるだけでなく、練習でも右手でボールを投げ始めた。特訓の開始。本気だった。

 翌日のことだ。学校から自宅に電話がかかってきた。担任教師から両親への“お願い”だった。「全身にじんましんが出たので、やめてください」。授業中も鉛筆は右手。無理な試みがたたり、心身のストレスが発疹という形で表れた。野球での右投げ転向は断念。小学生の頃は外野手に専念した。いまでも箸を右手で持つのは、幼き日の挑戦の名残だ。

 中学でも兄と同じ大垣ボーイズに所属。気がつけば、やはり兄の姿を追っていた。「投手は一番目立つ。投げているお兄ちゃんが格好良かった。いつか投手をやってみたいと思うようになった」。もともと肩が強く、外野出場を主としながら、登板の機会があった。

 2年時に極度の打撃不振に陥り、先発メンバーを外れることが増えた。3年生になる頃には下級生にレギュラーの座を奪われ、出場さえできない時期が続いた。「試合に出られず、悔しい思いがあった」。野球人生で初めて挫折。自宅に帰ると、父・広之さんに近所のバッティングセンターに付き添ってもらい、ひたすらバットを振った。運命は中学最後の公式戦として臨んだ「滋賀大会」で変わった。

 近畿、東海地方から約20チームが参加する大会で順調に決勝まで勝ち上がったところで問題が発生した。球数制限で登板できる投手がいなくなった。思わぬ形で登板機会が巡ってきた。中学では最初で最後の大舞台。全力で腕を振り、完投勝利で有終の美を飾った。「最後の大会で優勝できたのが大きかった。投手でもいけると思った」。たった一度の成功体験で「投手・富田蓮」の才能が一気に開花していった。(長谷川 凡記)

 ◇富田 蓮(とみだ・れん)2001年(平13)9月6日生まれ、岐阜県養老町出身の21歳。6歳の時に広幡クラブで野球を始める。東部中では大垣ボーイズに所属して外野手。大垣商では1年秋から投手でベンチ入りし、2年夏は岐阜大会決勝で敗退、3年夏は4強。三菱自動車岡崎では22年に都市対抗出場。今秋のU―23W杯では最優秀投手賞&ベストナインで優勝に貢献。1メートル75、79キロ。左投げ左打ち。

続きを表示

2022年12月8日のニュース