【独占手記 能見篤史】感謝の18年間「母と父に恩返しできたかな」生まれ変わったら「野手をしてみたい」

[ 2022年10月1日 07:30 ]

パ・リーグ   オリックス4―3ロッテ ( 2022年9月30日    京セラD )

<オ・ロ>引退セレモニーで胴上げされる能見(撮影・坂田 高浩)
Photo By スポニチ

 今季限りで現役を引退するオリックスの能見篤史投手(43)がスポニチに独占手記を寄せた。阪神、オリックスでの現役18年間を振り返ったラストメッセージ。9月30日のロッテ戦(京セラドーム)では8回に救援登板して打者1人を空振り三振に打ち取り、有終の美を飾った。試合は9回2死三塁から福田がドラッグバントを決めて今季6度目のサヨナラ勝ち。昨年の日本シリーズ進出を決めた「サヨナラバスター」を想起させる中嶋マジックで、逆転連覇へ希望をつないだ。

 ずっと身近にあったものが野球だった。実家のテレビからはいつも野球中継が流れていた。父親や兄の影響もあって物心がついたときには野球をやっていた。小学3年から少年野球チームで本格的に野球を始めた。

 当時から投手で、打たれると悔しくて泣きながら投げていた。それでも楽しかった。ボール拾いでさえも楽しかった。悔しさと楽しさが原動力だったのかもしれない。悔しいから打たれたくない、だからうまくなってやろう。楽しいからうまくなりたいと幼心に強く思っていた。

 兵庫県の田舎町で育ち、高校進学は熱心に誘っていただいた鳥取城北に決めた。「どんなことがあっても絶対に辞めない」。そう誓い、初めて親元を離れて寮生活に入った。幼い頃、冬は雪の上を、高校時代は鳥取砂丘で走った。体の基礎が作られた苦しい練習も今ではいい思い出だ。当時の橋本謙監督には「けがをしないように」と本当に大事に、大事に育てられた。ここまで長い間、野球を続けることができたのも、多くの方々に大切に育てていただいたおかげだ。

 それは高校卒業後に入社した大阪ガスでも同じことが言える。「是非、うちに来て下さい」。兵庫県の実家まで当時の竹村誠監督に足を運んでいただき熱心に誘っていただいた。ただ、社会人では壁にぶち当たり、結果も出ず、けがも多かった。入社5年後にはクビも覚悟していた。大好きな野球を辞めないといけないのか…。しかし当時の湯川素哉監督からの“最後通告”で気持ちが吹っ切れ、大きな一歩を踏み出すことができた。

 「今年が最後の勝負やぞ。どうせならけがするくらいの気持ちで投げ込め。悔いを残すな」

 甘さがあった自分を変えてくれた。社会人チームなので社会の中でいろいろ学ばせていただいた。野球部以外の社員の方々などにも支えられて成り立っているのに、会社に貢献できていない。少しでも「恩返しを」と心から思った。それだったら肩や肘だって壊れてもいいという発想になった。

 プロの世界に入ってからは「鉄仮面」と呼ばれることもあった。周りからはマウンド上で表情を変えないからだと言われた。子供の頃は泣きながら投げていた自分が変わった。その原点が大阪ガス。当時は制球難だった。それでも野手の方々はいつも「絶対にストライクが入るから大丈夫」と声をかけてくれた。愛情の言葉の数々で気づかされた。

 野手は投手の姿を見ている。悔しい表情は表に出したとしても、打たれたときにガックリした姿だけは見せないと心に決めた。野手に守ってもらわないとアウトは取れない。野球は一人でできない。その精神を、この夜まで貫くように努めたことは胸を張れる。

 高校を選んだ時も、自由獲得枠という制度で阪神を選んだときも考え方は同じだった。行く先で何があっても自分が選んだ道に後悔はしない。プロ初勝利を挙げても自信はなく、5年くらいでクビになるだろうなと覚悟はしていた。ただ、プロの世界でやっていけると確信したのは初めて2桁13勝を記録した09年だった。

 自身3勝6敗で迎えた7月8日の広島戦(新潟)は中継ぎとして3回無失点7奪三振。三振も数多く奪えたこともあり、このまま全力で投げていけば大丈夫だと思った。続く7月10日の巨人戦(甲子園)も中継ぎで登板して前回と同じ感覚で投げた。しかし結果は1/33安打2失点で敗戦投手。その反省を生かして続く7月12日の巨人戦(甲子園)ではバランスよく投げることを心がけ、8割程度の力で投げた。結果は中継ぎ登板で2回無失点。同じ対戦相手にもかかわらず力の入れ方等を変えただけで打者の反応が明らかに変わった。「これかもしれない」。このわずかな手応えを7月19日の巨人戦(東京ドーム)で体現した。先発として7回途中まで無安打。最終的には9回2安打無失点12奪三振だった。投手として生きていけるときっかけと自信が持てた忘れられない試合だ。

 18年間で残した成績は決して誇れるものではない。よくやったという感情もない。ただ一つ、スカウトしていただいた方々に迷惑はかけなかったかなとは思う。そして野球を始めるきっかけと影響を受けた父親への恩返しが少しはできたかなと自問自答している。

 父親は少年野球チームのコーチ、監督を30年以上も続けた。警察官という職業だったからなのか…。弱い姿や弱音を吐くことはなかった。体調を崩して休んでいる姿は一度も見たことはなかった。あの世に旅立ってはや3年。もっとキャッチーボールもしたかった。最後の、この姿もどこかで見てくれていると信じている。「ようやったな」と思っているのか、それはわからない。いつか、その応えを聞きたい。そして強い体に産んでくれ、育ててくれた母親には感謝の言葉しか見つからない。

 また、苦しんだり悩んだりしているとき、いつも隣に妻や子供たちがいてくれた。体を大きくするための間食として球場に持参していた妻特製の巨大おにぎりは何百個食べただろうか。10年には右足楔(けつ)状骨を剥離(はくり)骨折して手術。その時、妻のおなかには子供がいた。それでも球場まで何度も送迎をしてくれた。これからは家族への恩返しもしたい。

 16年間在籍させていただいたタイガースでは人間として成長させていただいた。甲子園で投げることができて幸せだった。あの雰囲気は日本一。タイガースファンの方には何度も後押しをしていただいた。オリックスではファンの方も含めてアットホームという優しさと温かさを感じることができた。在籍はわずか2年間と短く、あまり恩返しはできなかったが、大きな財産となるかけがえのない時間を過ごさせていただいた。

 43歳までプレーできるとは思っていなかった。本当にいろいろな方に出会え、支えられてきた。プロ野球選手としては本当に悔いはない。最後まで野球が好きな気持ちも変わらなかった。もし生まれ変わったなら野手をしてみたいかな。これまで数々のご声援をいただきました。18年間、本当にありがとうございました。(オリックスバファローズ投手) 

続きを表示

この記事のフォト

2022年10月1日のニュース