震災から10年 今、思うこと 高田高校野球部元投手「小さな気持ちを拾える、優しい消防士になりたい」

[ 2021年3月9日 05:30 ]

復興へのプレーボール 特別編(中)

消防士になった新沼心さん(斉藤春貴さん提供)
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 【元投手・新沼心さん(25=13年度卒、消防士)】

 あれから10年ですか…。やっぱり、時間が過ぎるのは早かったように思います。

 当時は中学3年生でした。横田中学校の同級生は7人。今は統合されてなくなってしまいましたけど、今でも連絡を取ったりしますよ。実は7人中、6人が高田高校でも同級生だったんです。

 3月12日が卒業式の予定でした。前日は午前中で家に帰って、友達の家に集まっていたところで地震が起きたんです。ずいぶん長いこと揺れていたのを覚えています。すぐ家に戻りました。

 家の中はぐちゃぐちゃでした。両親は仕事に出ていて、家にいた祖母と弟は無事でした。夜まで家で両親の帰りを待っていたんですけど、日が落ちて電気もつかなかったので、近くの公民館に泊まりに行きました。両親とは連絡が取れず、不安でしようがなかった。

 翌朝、家に母が帰ってきました。それから1時間くらいたって、父も…。

 本当にホッとしましたよ。そのときに初めて、陸前高田が津波被害に遭ったことを知ったんです。うちは山の方で海から少し離れていたし、テレビも見られなかったから、知らなかったんです。津波警報が出ていたのは知っていましたけど、まさか、と思いました。

 停電はしばらく続きましたけど、家には灯油のストックがあって助かりました。寒さは大丈夫でした。それから2カ月くらい、中学校で支援物資の仕分け作業を手伝ったりして、時間が過ぎるのを待っていました。車はありましたけど、ガソリンが減ると困るので、あまり乗りませんでしたし、沿岸部には行けませんでした。

 高田高校を選んだのは、中学校の先輩が野球部に入って活躍する姿を見ていたので、決めました。今でも覚えているのは、やっぱり、最後の夏ですかね。初戦で盛岡中央とやって、同点の8回からリリーフしました。何でか分からないですけど、あのときはめちゃめちゃ自信があったんです。チームも凄くいい状態でした。

 9回に勝ち越しの4点が入って、最後は併殺打で試合終了。私は2回しか投げていないけど、みんな気持ちが入っていた。いろいろな人に支えられた3年間。野球をしながら実感できた。恩返しは勝つこと。それが一番分かりやすい結果だと思っていたので、本当にうれしかったですね。震災後、夏初勝利でしたから。放課後にグラウンドまでバスで移動したり、大変なことはいろいろありましたけど、普通の高校生が味わえないような経験を、私たちは高田高校にいたから経験できたんです。

 高校卒業後は陸前高田市の消防士になりました。夏の大会が終わってから進路について考えました。やっぱり震災を経験したことが大きかったんですかね。自分にできることは何かなと考えて、パッと浮かんだのが消防士だったんです。最初は知識もないし何も分からず、うまくいかないことが多くて、自分の力不足を痛感しました。今は救急現場で住民の方に「ありがとう」と言ってもらえることが一番のやりがいになっています。

 この仕事、最後にものをいうのは体力だと思うんです。だから訓練はもちろん、トレーニングもやります。若い職員は救助大会もありますしね。高校時代は体重は70キロくらい。今は78キロです。筋肉と、ちょっと脂肪も付いたと思いますけど…。火災現場での力仕事や救助活動のために、とにかく体を鍛えなきゃいけません。

 今年は社会に出て8年目になります。えっ?目指す消防士像ですか?そうですねぇ…。この辺りに暮らしている住民の皆さんの小さな、細かな気持ちを拾ってあげられる、優しい消防士になりたいですね。仕事に誠実に向き合って頑張ります。(構成・川島 毅洋)

 ▼佐藤祐太朗さん(旧姓・高原 25=13年度卒、消防士) 震災から10年がたち、今が送れているのは、たくさんの方々の支援などのおかげです。ありがとうございます。皆さまからいただいた力を、今度は誰かの力になるようにしていきます!

 ▼泉田峻吾さん(25=13年度卒、消防士) 高校の時、たくさんの方々からの支援のおかげで一生の財産となる3年間を送ることができました。これからは恩送り(受けた恩を誰か他の人に送ること)していきたいと思います。ありがとうございました。

 ▼及川昴大さん(25=13年度卒、団体職員) 微力ながら自分にできることで、何か貢献していければと思います。

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