野球殿堂入りした星野仙一と平松政次――岡山県が生んだ2人の巨人キラー(3)

[ 2017年1月22日 09:30 ]

別当(右)、三原脩(左)の両首脳陣から初勝利の祝福を受ける平松政次さん
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】岡山東商のエース、平松政次さんがセンバツ優勝投手になった1965年(昭和40)、プロ野球にドラフト制度が導入された。

 当時、テレビのプロ野球中継は巨人戦しかなかった。自然と好きになる。平松さんは憧れの長嶋茂雄さんがいるジャイアンツに入りたかった。だが、巨人は甲子園に出たことのない堀内恒夫という甲府商の投手を1位指名するらしい。自分に声はかからなかった。

 大学は早大や慶大から誘いがあったが、3歳のときに父親を爆発事故で亡くしている。経済的に大学に行く余裕はない。学校を通じて誘ってくれた日本石油(現JX―ENEOS)入社を決めた。巨人に指名されなかったら社会人野球で力をつけ、巨人の指名を待とうと思った。

 第1回ドラフト会議前日の11月16日。平松さんは岡山駅に近い日本旅館「葵荘」を訪れた。阪神との秋季オープン戦で岡山に来ていた巨人の宿舎である。顔見知りだった旅館のお嬢さんに頼んで、長嶋さんに会わせてもらいに行ったのだ。憧れの人は「君が平松君か」と言って、差し出した色紙にサインをしてくれた。その光景を目にした柴田勲さんは「平松はてっきり巨人に入るもんだと思った」という。

 だが、翌日のドラフト会議ではやはり巨人からの指名はなかった。「巨人以外は行かない」と宣言していたのに、中日から4位で指名された。交渉は一切なく、中日の柴田崎雄スカウトから「ぜひ会ってくれ」と連絡が入ったのは日石に入社してからだった。

 会わないと失礼に当たる。指定されたホテルオークラの部屋に入ると、テーブルの上に風呂敷包みが置いてあった。中には100万円の束が20個入っていた。2000万円だ。契約金の上限は1000万円と規定されていたのに、その倍額。しかも「これは手付け。入ってくれたら好きなだけやる」と言われたという。月給2万3000円の身にはあまりにも現実離れしていて実感が湧かない。丁重に断った。

 社会人1年目の66年からいきなりエース級の活躍をした。都市対抗ベスト4進出に貢献し、小野賞を受賞。ハワイで行われた第1回世界アマチュア野球選手権の日本代表メンバーに選ばれた。日石OBで当時巨人の投手コーチだった藤田元司さんがしょっちゅう練習を見に来ていたし、内堀保、木戸美摸両スカウトも「1位で指名する」と約束してくれた。今度こそ巨人に入れると確信した。

 ところが…。国体に出ない高校生と社会人、国体に出た高校生と大学生と2度に分けて行われた66年のドラフト会議。巨人の1位指名は同じ岡山県出身でも捕手、東京六大学で三冠王になった立大の槌田誠さんだった。ドラフトのテレビ中継がなかった時代。新聞記者から知らされて愕然とした。

 大洋(現DeNA)から2位指名されたが、ショックで行く気になれない。その年の暮れに岡山東商の先輩、秋山登―土井淳の大洋バッテリーが帰省先の高梁市まで来てくれたが、「都市対抗で優勝したいんです。とにかく来年の都市対抗が終わるまで待ってください」と話して帰ってもらった。まだ巨人への未練が残っていた。

 しかし、巨人を待っても指名してもらえる保証はない。大洋には両先輩もいる。67年の都市対抗で優勝し、最高殊勲選手に贈られる橋戸賞を受賞。決勝戦の2日後、交渉期限最終日に大洋と契約した。背番号は空き番号の中から長嶋さんと同じ3を選んだ。「打倒・巨人」の決意表明でもあった。27をつけるのは2年目からだ。(特別編集委員=つづく)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年、岡山市生まれ。早大卒。物心ついたときから野球好き。小学4年生の65年春、センバツで優勝した岡山東商のパレードを自転車で追いかけた。

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