「山さんを悼む」~担当記者回顧録

[ 2009年2月5日 17:51 ]

3月24日、オリオンズ時代のユニホーム姿で始球式に臨んだ山内さん

 最後にお会いしたのは一昨年3月24日。千葉ロッテの本拠地開幕戦だった。オリオンズ時代の懐かしい縦じまのユニホームでスタンドに手を振った。背番号「8」の始球式。打席には対戦相手の日本ハム・ヒルマン、捕手はロッテ・バレンタインの両監督という豪華なセレモニー。でも「山さん」の球は弱々しく3メートルほどでグラウンドを転々とし、バレンタイン監督のミットに収まった。ベンチ裏で久々のあいさつ。「ボールが重くてなあ…」娘さんたちが支える車いすで精いっぱいの笑顔を見せてくれた。

 担当記者として2年間、山さんの傍にいた。決して冗舌ではないが、説得力があった。派手ではないが、存在感のある指導者だった。信心深く、正月は決まって京都の九頭竜大社に参った。キャンプ地の鹿児島では自室で香を焚いて精神統一。「野球三昧」としたためるサインには好んで筆を使った。見事に山さんを言い当てている。考えるのは野球のことばかり。

 1980年10月20日夜、当時、文京区白山の山内邸で私はひとりで山さんの思い出話を聞いていた。骨太の指で器用に毛バリを作りながら、酒を飲む。いける口ではない。飲むと決まって鼻がグスグスいいだす。「これさえなかったら3冠王よ」と左の頬に手を当てた。1959年8月27日、近鉄・G・ミケンズに受けた死球。戦後初の3冠王にばく進しながら、内角打ちの名人がストレートをよけきれず顔面に受け昏倒。夢はたった1球でついえた。鼻がグスグスするのはその時の後遺症だった。

 「おい、ミスターが辞めるらしいぞ。すぐ帰れ」10時を過ぎたころ、大阪スポニチの田中二郎報道部長から電話が入った。「今日は徹夜になるだろう。編集局の連中にこれを持って行け」“巨人・長嶋監督解任”の動きを知った山さんが、私邸を辞す私に焼酎6本を手渡してくれた。スポニチ大スクープ前夜の出来事。心遣いは細やかだった。

 話は前後するが、ロッテ監督に就任した79年。日生球場、薄暮の近鉄戦(6月9日)。八木沢荘六投手が“赤鬼”と恐れられた強打者、C・マニエルのあごに複雑骨折する死球を与えた。「昔を思い出したよ。歴史は繰り返すんやなあ…」と考え深げだった山さんと日生球場には、死球のほかにも「因縁」があった。当時「飛ぶボール」が問題になっていた。ロッテ戦で無刻印の公認球が見つかり、球団は連盟に問題を提起したのだが、「それよりもこっちのほうが問題なんや」と話したのが反発を良くするために樹脂を注入した圧縮バット。それも記事にしたが、後年、圧縮バットが禁止になったのは山さんの一言が無縁ではなかったと思う。

 山さんの指導が実って1980年は前期優勝。プレーオフで西本幸雄監督率いる近鉄に敗れたが、球団は日本シリーズを想定して「ロッテ―広島」のポスターを早々と作成した。幻となったそのポスターは現在、千葉マリンスタジアムのマリーンズミュージアムに展示してあるが、ぜひ実現させたかった。
 スポーツニッポン新聞社 取締役メディア担当 武田 幹雄(1979、80年ロッテ担当)

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2009年2月5日のニュース