【日本シリーズ戦記 2013年「楽天―巨人」】闘将と不敗エース 復興東北が笑って泣いた夜

[ 2022年10月18日 17:40 ]

2013年、球団創設9年目で初の日本一に輝き、星野仙一監督と握手を交わす田中将大
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 2013年11月3日。東北がひとつになった。2005年に誕生した東北楽天ゴールデンイーグルスの創設9年目で初となる日本一。レギュラーシーズンを無傷の24連勝で終えてリーグ優勝に貢献した田中将大投手(当時25歳)が日本シリーズ第7戦で胴上げ投手となり、星野仙一監督(当時66歳)が雨の降る仙台の夜空に舞った。2011年3月11日の東日本大震災で甚大な被害を受けた東北に訪れた歓喜の瞬間。胸を熱くするエースと闘将の物語…。

(役職は当時、敬称略)

~雨の仙台決戦 9回スタンド総立ち「田中!」~

 仙台の夜空から降る雨は、歓喜の涙雨となるか、それとも…。東北の、全国の楽天ファンが、マウンドの田中に全てを託した。百戦錬磨の指揮官・星野仙一も、宿敵である巨人との日本シリーズの制覇を目前にして三塁ベンチに座り緊張の面持ちを浮かべていた。

 9回2死一、三塁。一発出れば同点のピンチで打席は代打・矢野謙次。スタンドは総立ち。勝利の白いジェット風船が揺れている。スプリットを3球連続で投じ、カウント1―2から最後も142キロのスプリット。矢野のバットは空を切った。地鳴りのような大歓声のなかで田中は両手を突き上げた。ナインが突進してくる。もうもみくちゃだ。

~05年新規参入 弱小球団がたどり着いたリーグV~

 長い道のりだった。2004年の近鉄、オリックスの合併問題に端を発する球界再編問題を経て、05年にプロ野球で実に50年ぶりの新規参入球団として誕生。宮城県仙台市に本拠地を置いた。だが、1年目に97敗を喫するなど、すぐに「弱小球団」のイメージが定着。前年の12年までの8年間でAクラスは09年のわずか1度だけだった。

 球団創設9年目。闘将・星野監督の3年目となる2013年。田中はWBCに出場。開幕投手は新人の則本昂大に譲ったが、地元開幕の4戦目オリックス戦で白星を挙げると破竹の連勝。9月21日、日本ハム戦で22連勝。優勝に王手をかけた同26日西武戦で9回のマウンドに上がった。異例ともいえる守護神起用は星野監督の「この先も優勝の瞬間は映像に残り、何人もの人間が見る。そのマウンドには田中将大がいるべきだと思う」との思いからだった。1死一、三塁から栗山巧、浅村栄斗を連続三振。悲願のリーグ優勝を果たした。その後も無傷の連勝は続き、レギュラーシーズン成績は24勝0敗1セーブ、防御率1・27。クライマックスシリーズ突破の瞬間も9回のマウンドで迎え、宿敵の巨人との日本シリーズにチームを導いた。

~3・11 東日本大震災 小学校で誓った「最高の笑顔」~

 球団初の日本一決戦。指揮官にもエースにも「東北」への特別な思いが体に染み付いている。星野監督が楽天を率いて1年目の開幕直前。11年3月11日。未曾有の事態に直面した。東日本大震災。野球どころではなかった。「大変なことになってしまったな、と正直思った」。でも、立ち止まる訳にはいかない。激動の1年目は5位、2年目も4位とBクラスに甘んじながら着実にチーム改革を進めた。東北に勇気と喜びを伝えたい。迎えた3年目。シーズン前、選手たちに「今年勝てなかったからユニホームを脱ぐ」と宣言した。不退転の覚悟。東北で「希望の灯」となるべく、監督人生を懸けて13年のシーズンを戦った。

 田中は2011年の開幕を4日後に控えた4月8日。初めて被災地に足を踏み入れた。嶋基宏、青山浩二らと宮城県東松山市の大曲小学校を訪問。地震の爪痕が生々しく残る惨状を目に焼き付け「この1年も大切だけど長い目で支援していかないといけない。ただ、今年は特別な1年になる。ユニホームを着たら野球に集中して、僕らのプレーで元気や勇気を与えることができればいい」と心に誓った。その後も事あるごとに「東日本大震災を風化させてはいけない」と語り、可能な限りの支援を行ってきた。

 リーグ優勝を果たしCSも突破した。だが東北へ「最高の笑顔」を届けるにはもう1つの勲章が必要だった。

~自ら選択した「第2戦先発」負けられない試合で”30連勝”~

 2013年10月26日、Kスタ宮城で日本シリーズが開幕した。相手は連覇を狙う巨人。星野監督が現役時代から闘争心をむき出しに挑んできた宿敵だ。田中が守護神としてCS突破を決めた同21日、指揮官は佐藤義則投手コーチを通じて田中にシリーズ登板のスケジュールを打診した。『中4日で第1戦か中5日で第2戦に回るか』エースは万全を期すため第2戦を選択した。シリーズ開幕を託されたのは則本。1952年の南海(現ソフトバンク)大神武俊以来、61年ぶり3人目の新人の大役だった。則本が初対戦となる巨人打線を4回まで力でねじ伏せる。5回長野久義の右前打で1点を失うが、7回まで9奪三振と踏ん張る。だが打線が巨人投手陣を崩せない。8回、則本が村田に痛恨の1発を食い万事休す。初戦を落とした指揮官は「もっといいインタビュアーはおらんのか!」と大荒れだった。

 第2戦は満を持して田中。この年の対巨人交流戦では2勝を挙げている。巨人はルーキーの菅野智之。楽天にとっては「勝ち」を計算している大事な一戦だった。打線は湿っている。先に点はやれない。3回までノーヒット、5三振。6回2死満塁でホセ・ロペスを迎える。ピンチになるとギアを上げるのが真骨頂。レギュラーシーズンで満塁の場面は15打数1安打。被打率・067。この試合最速の152キロ直球で三振を奪った。8回寺内崇幸に1発を浴びたが2―1。12奪三振の完投勝利でタイに戻した。それでも星野監督は「こんな下手な野球やって、将大じゃなかったらやられてる。野球の神様がよく最後まで辛抱してくれた」と笑顔はない。あと3勝。指揮官も田中も球団もたどり着いたことのない頂点はまだ見えなかった。

~第4戦試合前に届いた恩師の訃報 背番号77の理由~

 敵地東京ドームでの第3戦、第4戦は1勝1敗。第4戦の試合前、星野監督に恩師の訃報が届いた。

 「巨人V9の監督」「打撃の神様」昭和野球人の巨星・川上哲治氏が死去した。74年に巨人のV10を阻止したのが中日。星野監督は当時のエースだったが、川上氏は敵将である以上に、恩師でもあった。「俺の背番号をつけて、俺を超えてみろ」との川上氏の言葉を受け、中日、阪神、北京五輪、そして楽天と監督で全て77をつけてきた。サインは筆を使うことや読書の勧め。NHKの評論家時代、ゴルフの際は運転手を務めて川上氏から野球哲学を学んだ。岐阜・正眼寺に連れられ、座禅も組んだ。

 「大往生かな。野球に対する集中力は人生かけてのものがあった。本当に情に厚い方だったが勝負に対しては非情。それを学んだ」。巨人を倒し、自身初の日本一。絶対に勝たなければいけない理由が加わった。

 第5戦は延長戦を制し王手をかけた。第6戦は不敗のエース田中。東北のファンに約束した日本一胴上げへの道筋は見えていた。Kスタ宮城のスタジアム外周ではパブリックビューイングが行われ、スタンドに入れなかった1万人以上が巨大スクリーン前に陣取った。だが数時間後、田中も東北ファンも野球の底知れぬ恐ろしさを知ることになる。

~王手第6戦 魔の5回東北が呆然 田中が負けた~

 立ち上がりからペースは楽天が握った。2回1死から枡田慎太郎が四球。松井稼頭央の右翼線への二塁打で1死二、三塁とした。嶋の三塁ゴロで枡田が先制のホームを踏んだ。続く聖沢諒の一塁ゴロをロペスが後逸。2点目が入った。ロペスは3回にもアンドリュー・ジョーンズの邪飛を落球するなど先発ルーキー菅野の足を引っ張った。だが元メジャーリーガーはこのままでは終わらなかった。不敗エースが序盤に2点のリードを得て、パブリックビューイング会場では楽観ムードが漂っていた。

 5回空気が一変する。田中が兵庫・伊丹市の「昆陽里タイガース」でバッテリーを組んでいた幼なじみの坂本勇人に左中間二塁打を浴びる。1死後、打席は汚名返上に燃えるロペス。カウント2―2からの6球目だった。高めに浮いたスプリットを狙い撃たれ痛恨の同点2ラン被弾。さらに3本の安打を集中され勝ち越しを許す。6回にも1死二、三塁からロペスの三塁ゴロで1点を追加された。7回を投げ終え、首脳陣に「代わるか?」と打診された田中は「最後まで行きます」と志願した。160球を投げきり、日本プロ野球最後の「先発マウンド」を終えた。星野監督は「代われといったのにエースの意地があったのだろう。テレビを見ている人、お客さんは田中の負けを見たんだから本当に幸せ。こんなことなかったんだから」と声を絞り出した。

 敗戦のロッカーは静まりかえっていた。星野監督はナインに語りかけた。「お前ら、よくやった。よくこのシチュエーションまで持ってきた。あしたはうれし涙を流させてくれよ」。下は向かない、向かせない。指揮官ですら見たことのない頂点。上を向いて戦うことを誓う魂のミーティングだった。

~運命の第7戦 9回星野監督 球審に「分かっとるやろな」~

 第7戦。田中は普段より1時間早く球場入りしマッサージを受けた。試合が始まると展開を読み7回からブルペン投球を始めた。美馬学が6回を無失点に抑え、2番手で登板した則本が7、8回を完璧に近い内容で抑えていた。8回終了時点で3―0。9回表。ベンチを出た星野監督は、ゆっくり杉永政信球審に近づくと、ニヤッと笑ってこう言った。「分かっとるやろな」。これ以上ない場面で、最高の投手を締めくくりに送り出す。様々な思いが込められた言葉だった。そして、しばらく間があって大きな声が響いた。
「田中ッ!」――。

 次の瞬間、背番号18がマウンドへ。スタンドは登場曲でもある「FUNKY MONKEY BABYS」の「あとひとつ」の大合唱。すでに感極まって涙を流すファンもいた。田中はこの時を振り返り「ファンの方々の声援は本当に力になったし、自分の背中を押してくれた」と感謝している。球界再編を経て誕生した新球団。低迷期を乗り越えて、あと1イニングで夢が叶う。自身は創設3年目の07年に入団して7年目。同年オフにメジャー移籍の可能性もあった右腕にとっては、日本での最終登板となる可能性もあった。

 先頭の村田修一に中前打を浴びたが、続く坂本は空振り三振。最速150キロを記録したとはいえ、160球完投の翌日で明らかに球威はない。それでも気力で腕を振った。ジョン・ボウカーが一ゴロで、ついにあと1アウト。だがロペスに右前打を許して2死一、三塁となり、一発出れば同点のピンチとなった。打席は代打・矢野。楽天ベンチ、スタンドのファン、東北の全ての人間が勝利を信じ、祈った。カウント1―2から142キロのスプリット。矢野のバットは空を切った。歴史に残る魂の15球だった。

~震災発生から968日 東北ファンに笑顔を届けた~

 試合後、緊張から解き放たれた田中は、こう語っている。「きのうは情けない投球だったので、自分自身もやもやしていた。だから出番をもらえるなら、いつでもいくぞ、という気持ちでブルペンで準備していた」胴上げされた星野監督は男泣きしていた。88年西武・森祇晶監督、99、03年ダイエー・王貞治監督。日本シリーズでは3度巨人OBが監督を務めるチームに敗れた。パ・リーグの指揮官として初めて巨人と激突。打倒巨人と日本一の悲願を達成した。だが何より東北のファンへ笑顔を届けたことが闘将の胸を熱くしていた。

 「もう最高。選手は12球団で一番過酷な環境の中で、東北に日
本一をもたらしてくれた。全国の子供たち、被災者の皆さんにこれだけの勇気を与えた選手たちを褒めてやってください」

 数々の試練を乗り越えて迎えた2013年11月3日の歓喜。震災発生からは968日が経過していた。長いプロ野球の歴史においても、これだけ人々の記憶に残るシーズンはないだろう。そして「星野仙一」と「田中将大」の名は永遠に語り継がれる。
(スポニチアーカイブス2020年11月号に掲載)

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