斉藤立「これで自分、日本に帰れるのか…本当に情けない」メダルなしパリ終戦…3位決定戦で無念のタップ

[ 2024年8月3日 00:44 ]

パリ五輪第8日 柔道 ( 2024年8月2日    シャンドマルス・アリーナ )

<パリ五輪 柔道>男子100キロ超級、準決勝で敗れ顔をしかめる斉藤立(撮影・平嶋 理子)
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 柔道100キロ超級の斉藤立(22=JESグループ)が2日、3位決定戦でアリシェル・ユスポフ(25=ウズベキスタン)に敗れ、史上初の父子金メダルを目指して降り立った初五輪は、無念のメダルなしに終わった。

 初五輪は無念のタップで終わった。開始1分すぎに技ありを奪われると、その直後に腕ひしぎ十字固めを決められ苦悶の表情でタップした。敗戦後は畳に大の字に。試合を終えた斉藤は「情けないっす。(準決勝後は)応援に来てくれた家族に対して、ここで諦めたら申し訳ないと思って立ったんですけど、力不足でした。本当に自分の力不足で、情けない気持ちでいっぱいです。本当に本当に、応援してくださった方に情けない気持ちと申し訳ない気持ちしかなくて、これで自分、日本に帰れるのかと思っていて、本当に情けない気持ちでいっぱいです」と悔しさをあらわにし、自分自身に厳しい言葉を並べた。

 最愛の父・仁さんが亡くなってから3482日目。その前日、結果的に最期の言葉となった「稽古、行け」に絶望していた12歳の少年は、本気で五輪を目指す日々の中で父の偉大さに気づかされ、教わってきたことの大切さを実感することになった。

 「釣り手を立てろ」「けんけんで追うんだ」「おまえが将来相手にする選手は、2メートルを超える巨人だぞ」「謙虚になれ」「稽古はうそをつかない」

 年齢を重ね、試合を繰り返し、より高いレベルの相手と組み合う中で、思い出すのは小1で柔道を始めた時から、仁さんに口酸っぱく言われ続けた言葉の数々だった。突然、行きつけの居酒屋に呼び出されて打ち込みを課され、大会では優勝しても会場の隅で反省練習をしたが、そうした日々がパリへとつながった。昨年4月の全日本選手権。優秀指導者表彰では仁さんを指名。代わって表彰式に出てもらった母・三恵子さんには、自室に飾る遺影を渡し、一緒に出席してもらった。

 その写真の仁さんは、鬼の形相を浮かべている。撮影されたのは88年、全日本選手権の優勝直後だ。膝の大ケガを乗り越え、同年夏のソウル五輪への道を切り開いた際の父の表情が、心の琴線に触れるのだという。子供の頃、何度も見せられた父の試合映像だが、ボロボロの体で日本勢金メダルゼロの窮地を救ったソウル五輪だけは、「つまらないからいいよ」と見たがらなかったという。

 「小中学校の時はロサンゼルスの、全盛期の根こそぎ持って行く柔道に憧れた。最近はソウルの方が心に来る。こんな人はいない」

 日本一大きな期待を背負わされ、大きな体に付きまとうケガも乗り越えてきた斉藤だからこそ、今はそう思う。DNAと勝負魂を受け継いだ仁さん最後の愛弟子が、三恵子さんとの思い出の地パリで、五輪の畳に立った。メダルには届かなかったが、4年後に今回の悔しさと経験をバネに、必ず夢をかなえる。

 ◇斉藤 立(さいとう・たつる)2002年(平14)3月8日生まれ、大阪府出身の22歳。東京・国士舘高、国士舘大を経て、今年4月からJESグループ所属。父は84年ロサンゼルス、88年ソウル大会を連覇し、男子日本代表監督や強化委員長を歴任して15年1月に胆管がんで亡くなった仁さん。小1の時に兄・一郎さんが柔道を始めることになり、同時に開始。小6で全国少年大会、中3で全国中学校大会を制覇。19年には史上最年少の17歳52日で全日本選手権に出場し、3回戦敗退。22年には史上初の父子制覇を果たし、同年の世界選手権は初出場で2位。昨年8月にパリ五輪代表に内定。父子代表も日本柔道界では初の快挙となった。

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