元セルティクスの名センター ビル・ラッセル氏が死去 88歳 NBAのレジェンド 

[ 2022年8月1日 08:57 ]

2009年のビル・ラッセル氏(AP) 
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 NBAのレジェンドの1人で、セルティクス時代に8連覇を含む11回のファイナル制覇に貢献したビル・ラッセル氏が7月31日、ジェニン夫人に看取られながら死去。88歳だった。死因は公表されていないが静かに息を引き取ったとされている。NBAでは2009年にファイナルMVPのトロフィー名にラッセル氏の名前をつけており、同氏はシリーズ終了後の表彰式には毎年姿を見せていたが、今年はセルティクスがファイナルに進出していたにもかかわらず(優勝はウォリアーズ)、健康状態がすぐれないとして“欠席”していた。

 ルイジアナ州モンロー出身のラッセル氏はサンフランシスコ大で、のちにチームメートと監督にもなるガードのK・C・ジョーンズ氏(2020年に86歳で死去)らとともにNCAAトーナメント(全米大学選手権)で連覇(1955、56年)を達成。大学時代には通算55連勝を記録し、1956年のメルボルン五輪では米国代表として出場して金メダルを獲得した。高校時代にはほとんど無名の存在だったが、背面跳びのなかった時代に陸上の走り高跳びで2メートル6を記録するなど身体能力は抜群だった。大学に入学してからバスケットボールの基礎的技術をマスターすると開花。とくにリバウンドやブロックショットで他チームを圧倒する身体能力を発揮するようになった。

 1956年のドラフトでセルティクスは上位指名権を持っていなかったが、当時のレッド・アウアーバック監督(2006年に89歳で死去)による巧みな舞台裏での交渉によって、全体2番目でラッセルを指名したホークス(当時の本拠地はセントルイス)とのトレードでセルティクスに入団。1959年からは前人未到のファイナル8連覇にチームの大黒柱となるセンターとして貢献し、最後の2回の優勝にはNBA史上初となる黒人監督(兼選手)としてチームを頂点に導いた。

 シーズンMVPには5回、球宴には12回選出され、13シーズン在籍したNBAでは通算963試合に出場して平均15・1得点、22・5リバウンドをマーク。背番号「6」は永久欠番で、ウィルト・チェンバレン(ウォリアーズ、レイカーズ)と並ぶリーグ屈指のセンターとして活躍した。

 リバウンドの1試合自己最多は現在のNBAからすると信じられないレベルに達する51(NBA記録はチェンバレンの55)。リバウンド王には4回輝いているが、同氏の能力を象徴するブロックショットが正式に個人成績に組み込まれたのは1973年以降で、もし60年代にブロックショットが正式記録であればそのタイトルも手にしていたと見られている。

 デビュー時からコート上ではほとんど笑みを見せず、無言を貫いたためにメディアとの関係も悪く、ファンへのサインもしなかったが、一方で人種差別に毅然とした態度を示したことでも有名。黒人でありながら新人の契約金としては当時の最高金額(2万4000ドル)を勝ち取るなど、スポーツ界の変革にも貢献している。

 1969年シーズンを最後に現役を引退したあとは、スーパーソニックス(現サンダー)やキングスの指揮官も務めており、監督としては通算341勝290敗。NCAAトーナメント、五輪、ファイナルといったビッグ・イベントですべて優勝を飾り、選手としても監督としてもバスケットボールの殿堂入りを果たした。

 NBAのレジェンド死去を受けてアダム・シルバー・コミッショナー(60)は「すべてのチームスポーツにおいて最も偉大なチャンピオンだった」とコメント。バラク・オバマ元大統領(60)は「きょう、私たちは“巨人”を失った。選手としても人間としても、身長以上(208センチ)に彼のレガシーは高い位置にある」と人種差別とも戦ったその人生を称えていた。

 またラッセル氏のあとにリーグの看板プレーヤーとなったマイケル・ジョーダン氏(59=現ホーネッツ・オーナー)は「彼は選手としても王者としても、そして黒人監督としても人権活動家としてもパイオニアだった。すべての黒人選手に道を切り開いた人だった。みんな彼のあとに続いた。私もその1人だ」という声明を発表している。

 なお出身高校でもあるカリフォルニア州のマクライモンズ高校のチームメートには、のちに大リーグのレッズやオリオールズでシーズンMVPとなるフランク・ロビンソン氏(2019年に83歳で死去)がいた。

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