故ビル・ラッセル氏が歩んだ道のり NBAレジェンドの中のオンリーワン 波乱万丈の生涯 

[ 2022年8月1日 11:27 ]

1966年、8連覇を達成したときのビル・ラッセル氏とレッド・アウアーバック監督(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1971年か72年だった思う。TBSキー局のテレビで白黒画像のNBAの試合が中継録画としてオンエアされていた。バスケを知らず予備知識のない私はぼんやりそれを見ていたのだが、チャンネルを合わせてから数分後に目が点になってしまった。

 シュートを打ったのはバックスの216センチ、ルー・アルシンダー。なぜ驚いたかというと、サイドラインからのスローインを受けてボールをリリースした場所は、フリースローラインの外側。3点シュート全盛の現在からするとごくありきたりの位置かもしれないが、彼はそこからジャンプシュートではなくフックショットでボールをリングの中に沈めたのである。のちにカリーム・アブドゥルジャバーと改名し、レイカーズ時代に“スカイフック”と呼ばれるようになったあの必殺技だった。

 私が陸上部を辞めて中学2年でバスケを始めた理由はそのスカイフックをやってみたかったから。練習で試みたあと、監督にこっぴどく叱られたあとに“封印”することになるのだが、自分の人生をある意味変えたNBAの一コマだった。

 時は流れる。1992年のバルセロナ五輪に米国がマイケル・ジョーダン(当時ブルズ)らを含むNBAのオールスター軍団を送り込んでから、日本でもNBAへの注目度が高まった。やがてレギュラーシーズンの試合が放送されるようになり、業務上、NBAの知識が必要になった。しかし私の記憶の“在庫”はあのスカイフックを目撃した瞬間までしかない。そしてそこから過去に遡る作業が始まった。

 アブドゥルジャバーこそがNBAで最も有名なセンターだと思っていたがすぐにその認識を改めることになった。分厚いNBAの歴史を記した本で目にしたのはビル・ラッセル(BILL・RUSSELL)という名前。現役13シーズンで8連覇を含めファイナルを11回制覇し、最後の2回はNBA史上初の黒人監督兼選手として達成していた人物だった。

 208センチのセンター。高校時代はチームから外されそうになるほどテクニックに乏しい無名の選手だったが、基礎的技術を会得したサンフランシスコ大時代に急成長し、NCAAトーナメント(全米大学選手権)で連覇を達成した。1956年のメルボルン五輪でも米国代表として金メダルを獲得。1957年のNBAドラフトで全体2番目にホークスに指名されてトレードでセルティクスに移籍し、そこから“黄金時代”が始まっている。

 私にとって調べているときの最大の驚きは、入団時の年俸が白人選手ばかりの当時のセルティクスで最高給だった選手(ボブ・クージー)と、1000ドルしか違わない2万4000ドル(当時のレートで約864万円)だったこと。米国で人種差別を禁ずる公民権法が成立するのは1964年で、それまではスポーツ界であっても黒人の待遇は白人以下であるのが当たり前だった時代に、彼はそのサラリーを勝ち取っていた。

 もちろんそこには黒人選手を差別しなかったセルティクスの経営方針もあったが、1950年代のカレッジバスケ界では、遠征時にチームの主力でもあった黒人選手は白人選手と同じホテルに泊まれなかった時代。そんなときにビル・ラッセルというNBAの新人は米国のプロスポーツ界に風穴を開けていたのである。

 現役時代に「最も利己的な選手」と揶揄されたラッセル氏を語るエピソードとしてメディアとの確執や、チーム関係者に知らせないままの電撃引退、さらにサインを拒否したファンへの冷遇、1975年の殿堂式典への欠席などが挙げられるが、当時の記者や関係者、そしてファンのほとんどが白人。人種差別に敏感だった同氏が「与えられないならば何も与えない」という態度を取ったのは時代背景が影響したものだと理解している。

 その評価が変化していったのは、黒人選手がNBA各チームの主力となり、メディアにもチーム関係者にもファンにも黒人の数が増えていってから。当の本人には現役時代に「時代と戦っていた」という認識はなかったかもしれないが、それは歴史を振り返ったときに光輝いて見える大きな転換点だったと、多くの人が知ることになった。(私自身を含めて)

 元レイカーズのマジック・ジョンソン氏(62)は「彼は社会正義と差別や人権と戦った最初のアスリートだった」と語ったがその通りだと思う。そして元ブルズのマイケル・ジョーダン氏(59=現ホーネッツ・オーナー)の追悼コメントを読んだときには少し涙腺が緩んだ。

 「ビル・ラッセルはパイオニアだった。選手としても王者としても。そして黒人初の監督や人権活動家としても…。彼はこのあとNBAにやって来た私を含むすべての黒人選手のために道を切り開き、手本を示してくれた」。

 今や日本選手さえもプレーするようになったNBA。BAAとして発足したのは1946年だが、真の歴史が始まったのはラッセル氏がデビューした1956年から。私は今でもそう思っている。そしてそう感じさせてしまうところにビル・ラッセル氏の偉大な部分がある。

 在籍年数におけるファイナル優勝確率はジョーダン氏が40・0%であるのに対してラッセル氏は84・6%。おそらく未来永劫にわたって二度と出てこない“オンリーワン”のレジェンドだと思う。今年のファイナルにはセルティクスが出場。ウォリアーズに敗れて通算18回目のリーグ制覇を逃したが、病床にあってもその試合を見ていたのだと信じたい。

 ファイナルMVPに与えられるのはビル・ラッセル・トロフィー。時代と戦った唯一無二のレジェンドの名は、これからも形あるもので受け継がれていく。
 
 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には7年連続で出場。還暦だった2018年の東京マラソンは4時間39分で完走。

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