栃煌山が引退…“花のロクイチ組”稀勢、豪栄に続きまた一人 2度目の十両陥落で決断

[ 2020年7月16日 05:30 ]

昨年の初場所で稀勢の里(右)を下した栃煌山
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 大相撲の元関脇で西十両2枚目の栃煌山(33=春日野部屋)が15日、オンラインでの会見で現役引退と年寄「清見潟」襲名を表明した。三役を通算25場所務めるなど、長らく上位で活躍したが、2度目の十両陥落となった7月場所(19日初日、両国国技館)の直前に、土俵から去った。今後は春日野部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たる。

 愚直に相撲に向き合ってきた栃煌山が最後まで信念を貫いた。5月の夏場所の番付発表で十両への陥落が決定。中止となった夏場所から長い月日が流れたが決意は変わらなかった。熟慮を重ねた末、師匠の春日野親方(元関脇・栃乃和歌)と話し合って最終決断。「次に落ちた時は引退しようと決めていた。最後は自分の気持ちに正直にいこうと思った」。真っすぐにパソコン画面を見つめる目に、涙はなかった。

 高校相撲の名門、高知・明徳義塾高を経て春日野部屋に入門。初土俵から所要10場所の06年秋場所で新十両に昇進し、20歳だった07年春場所で新入幕の土俵に立った。一切の小細工がない、ひたむきに前に出る相撲で番付を上げ、連続75場所、13年にわたって幕内の座を守り、関脇を11場所、小結は14場所務めた。12年夏場所は12勝を挙げて旭天鵬との優勝決定戦に進出。「逃げずにしっかり自分の相撲を取りきろうと思っていた。上の番付(大関)には上がることができなかったが、自分のできることはやってこられた」。15年半に及んだ現役生活を終えることに「寂しい気持ちはある」と言うものの、突き進んだ相撲道に後悔はなかった。

 思い出の一番には、横綱・稀勢の里(現荒磯親方)の最後の相撲となった昨年初場所3日目の取組を挙げた。稀勢の里とは同じ1986年度(昭和61年度)の生まれで、いわゆる“花のロクイチ組”。「同学年で(自分の)入門時に関取に上がっておられた方。最後に相撲が取れたのは、うれしい気持ちも(残念な気持ちも)両方ありましたし思い出に残っている」と振り返った。

 今後は「第二の栃煌山」の育成に力を注ぐ。春日野親方から「(部屋の力士は)彼の背中を見て育った。栃ノ心や碧山もそう。これからも体を合わせて後輩に伝えてもらいたい」と期待をかけられると「(後輩たちが)相撲に対して我慢強く、粘り強く、気持ちを持った力士になれるように」と親方としての抱負を語った。

 ◆栃煌山 雄一郎(とちおうざん・ゆういちろう=本名影山雄一郎)1987年(昭62)3月9日生まれ、高知県安芸市出身の33歳。元中学横綱で高知・明徳義塾高を経て05年初場所初土俵。07年春場所新入幕。7月場所(19日初日、両国国技館)の番付は昨年九州場所以来の十両だった。三役25場所在位は昭和以降10位。通算661勝598敗19休。殊勲賞、敢闘賞、技能賞いずれも2回。金星6個。1メートル87、151キロ。家族は妻と1女。

 ▼荒磯親方(元横綱・稀勢の里)私はあれだけ一生懸命やっている栃煌山に及ばずに引退を決めた。最後が彼で良かったと思う。独特の差し身、独特の残り腰は唯一無二。支度部屋の運動量も半端なく、準備への情熱は学ぶところがあった。番付は関脇だが、大関の力はあったと思う。

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