【山本譲二 我が道23】野球とは縁が切れたと思っていたが…故郷のクラブチーム総監督に

[ 2026年4月24日 07:00 ]

茨城ゴールデンゴールズを創設した萩本欽一さんと(本人提供)
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 高校卒業と同時に野球とは縁が切れたと思っていました。しかし、長女が通っていた目黒区内の小学校で練習していた少年野球チームから指導を依頼されたことがありました。短期でしたが、子供たちにノックをして楽しかった思い出があります。自分の草野球チームもつくり、ニッポン放送のチームと対戦。その試合中に骨折して“ニュース”を自ら提供するなど、その後の人生でも野球は自分の友達であり続けました。

 1993年3月に台北で開催された「日台国際親善少年野球大会」では名誉監督を務めました。行きつけだった名古屋の中華料理店の名物オヤジから頼まれて引き受けました。台湾に遠征して子供たちの真剣なプレーに触れて、やっぱり野球は楽しいものだと心から再認識しました。そんな思いが別の形で結実したのが2005年でした。

 プロ野球以外でも、大企業が社員の福利厚生と社業PRも兼ねて自社の野球チームを保有し、社会人野球大会、いわゆるノンプロが野球人気を支える時期もありました。しかし、バブル崩壊による企業の経営悪化や社会環境の変化もあり、企業保有の野球チームが次々と消滅。球界が揺れ動く中、地域に根ざしたクラブチームが次々に誕生。その象徴的存在が、萩本欽一さんが率いた「茨城ゴールデンゴールズ」でした。一気にブームとなり、同様の話が野球王国だった山口でも湧き起こりました。

 山口県防府市のチームの監督が上京して「山口県野球の発展のためにひと肌脱いでほしい」と依頼されました。断れるはずもありません。「引き受けるにあたり条件を出していいですか?尊敬する、山口が誇る野球人を監督にしてもらいたい」と「黒い霧事件」でのプロ野球界追放処分が解除された直後の池永正明さんを監督にしたいと頼みました。

 福岡で飲食店を経営していた下関商OBの池永さんには自分が直接交渉に出向きました。最初は固辞していた池永さんでしたが、最後は「譲二の頼みは断れんのう」と監督就任を了解してくれました。池永さんも野球が好きで好きでたまらなかったのです。

 池永さんと選手のセレクションも行いました。選手のレベルを池永さんは一目で見抜きました。そうして自分が総監督の「山口きららマウントG」は発足しました。萩本さんのチームとの試合には、同郷で下関工卒の元巨人・宮本和知投手も駆けつけました。「1回だけ投げてほしい」「肩つくります」とウオーミングアップしてマウンドに立ちました。2球目を投げた瞬間「バチッ」という音がベンチまで聞こえ、アキレス腱が切れていました。

 都市対抗野球大会出場を目指しましたが、想像以上に球団運営は難しいです。練習場の確保や遠征費など経費がかさみ、8シーズンで力尽きました。池永さんら、自分の夢に付き合ってくれた皆さんには感謝の気持ちでいっぱいです。

 ◇山本 譲二(やまもと・じょうじ)本名同じ。1950年(昭25)2月1日生まれ、山口県下関市出身の76歳。早鞆高3年の67年、夏の甲子園出場。74年に「伊達春樹」として「夜霧のあなた」で歌手デビュー。北島三郎に師事し、78年「山本譲二」として再デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」が81年にかけてロングヒット、ミリオンセラーに。NHK「紅白歌合戦」に計14回出場。

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