【藤あや子 我が道15】寡黙な父、奔放な母の娘です 本心隠してその場の流れで離婚が決まる

[ 2025年12月16日 07:00 ]

奔放だった母・ノリ子と、私の娘の面倒を見てくれた父・定治
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 20歳で私を産んだ母・ノリ子は奔放に生き切った人です。実は私が25歳の時に父・定治と離婚しました。27歳の時に角館でバー「ラドンナ」を開いた母は、繁盛店のママとして切り盛りしていました。そのうち、店の常連だった医師と恋愛関係に発展したようです。母が店を勝手に空けることが増え、父・定治の弟である叔父が異変に気付いたことで、家族会議に発展しました。

 「どうなっているんだ!」と叔父が母を問い詰めました。父と母は24歳の年の差がありました。若い母からすれば、老人の世話をしてあげているぐらいの思いだったのかもしれません。「冗談じゃない。そんなことを言われるぐらいならば、私はもう出て行く」と母は居直ったのです。売り言葉に買い言葉。叔父は「そんなに出たかったら、出て行けばいい」と言い放ちました。父は本心では母に出て行ってほしくなかったのに、その場の流れで離婚が決まってしまいました。3年前に私と離婚した隆洋さんが亡くなった1986年6月の前のことでした。

 その後父は、歌手活動を本格化していく私の代わりに、幼い私の娘の面倒をずっと見続けてくれました。娘が小学校2年生になる89年4月には、店を他人に譲り、娘とともに上京しました。70歳を過ぎてからの生活環境の急激な変化は、さすがに体にこたえたのでしょう。体調の悪化が進み、92年の秋ごろからは入院生活となりました。暮れのNHK「紅白歌合戦」への初出場が決まり、うれしくてすぐに病院の父に電話で報告しました。すると「もう思い残すことはない」と言ってくれたことが忘れられません。翌93年4月18日、私が仕事で福岡に行っていた時に呼吸不全のため75歳で旅立ちました。翌日、父の亡きがらが自宅に戻ってきました。テレビをつけると、私が「演歌の花道」で「むらさき雨情」を歌っているのが流れ、最後に聴いてもらいました。

 一方、離婚して出て行った母は、ずっと娘の私を応援してくれました。特に劇場公演は毎回欠かさずに見に来てくれました。舞台の幕が上がった瞬間、一番前の席でヒラヒラの帽子をかぶって手を振っているのが母でした。「恥ずかしいので、頼むからもうやめて」とお願いすると、次からは10列目ぐらいに座って手を振っていました。

 そんな元気でおちゃめな母でしたが、2004年9月1日に原発不明がんのため63歳で亡くなりました。病院にお見舞いに行くと「ノリ子のノリは、乗り越えるのノリなのよ。ファイト、ファイト!」と自分を励ましていました。病室で看病していると「あなたは藤あや子なのよ。すっぴんなんかでいないで、ちゃんと口紅ぐらい塗りなさい」と叱ってくれた人でした。本当に最期まで太陽のような明るさを振りまいて逝きました。

 家族を守るため黙々と働き続けた父。一度しかない人生を悔いなくポジティブに生き切った母。私は間違いなくこの2人の娘です。

 ◇藤 あや子(ふじ・あやこ)1961年(昭36)5月10日生まれ、秋田県角館町(現・仙北市)出身の64歳。民謡歌手として活動後、87年に村勢真奈美の芸名で「ふたり川」でデビュー。89年、藤あや子に芸名を変え「おんな」で再デビュー。92年「こころ酒」で日本有線大賞を受賞、第43回NHK紅白歌合戦に初出場、21回出場している。新曲「想い出づくり」など「小野彩(このさい)」のペンネームで作詞・作曲も行う。

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