石原慎太郎さん 政界で貫いた「暴走老人」

[ 2022年2月2日 05:30 ]

石原慎太郎さん死去

都知事時代の石原慎太郎さん
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 憲法改正はもちろん、核保有まで言及した超タカ派として知られた石原慎太郎さん。相手に構わないはっきりした物言いは「慎太郎節」と呼ばれた。切れ味は晩年まで衰えず、自らを「暴走老人」と称した。

 約半世紀にわたった政治家人生。政治行動を起こす前に決まって文芸誌に小説を発表するスタイルを貫いた。思想の強さは政策を進める力につながった。

 それゆえ、発言や行動は何度も物議を醸した。環境庁長官時代の1977年4月には熊本県の水俣病患者施設で患者から抗議文を手渡され「書いたのはIQ(知能指数)の低い人たちでしょう」と発言。その後、患者の前で膝をついて謝った。

 81年には、趣味のヨットレースで小笠原諸島を航行中、弟の裕次郎さん急病の知らせが飛び込み、自衛隊機を呼び寄せて帰京。公私混同として問題になった。87年末の運輸相就任直後にはリニアモーターカーの実用化を推進する一方、宮崎県のリニア実験線について「豚小屋、トリ小屋の間を走っている」と発言し、地元から猛反発を受けた。
(猛反発も/) それでも外交や防衛問題でタカ派の論陣を張り、人気は衰えなかった。日米貿易摩擦を抱える両国の関係に一石を投じた「『NO』と言える日本」は、ソニー創業者の盛田昭夫氏との共同執筆でベストセラーとなった。

 都知事は99年から13年半。強力なリーダーシップで世論の注目を集める政策を次々と打ち出した。一方、あまり登庁せず、職員を困らせることもしばしばだった。

 4期目途中の12年に知事を辞職し、太陽の党を設立。自主憲法制定を目指して80歳で国政復帰へ突き進む姿は、当時の田中真紀子文科相から「格好悪い暴走老人だ」と揶揄(やゆ)された。12年衆院選で慎太郎さんは国政復帰を果たし、真紀子氏は落選。13年2月、衆院予算委員会で質疑に立った慎太郎さんは「暴走老人の石原です。私はこの名称を非常に気に入っている。せっかくの名付け親の田中真紀子さんが落選されて、彼女の言葉によると“老婆の休日”だそうでありますが、大変残念だ」と話し、議場を沸かせた。

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2022年2月2日のニュース