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村田奪冠、涙のリベンジTKO 連打ボッコボコ2回で決めた!

[ 2019年7月13日 05:30 ]

WBA世界ミドル級タイトルマッチ   ○同級4位・村田諒太 TKO2回2分34秒 王者ロブ・ブラント● ( 2019年7月12日    エディオンアリーナ大阪 )

2回、ブラントを攻める村田。TKOで王座を奪還(撮影・北條 貴史)
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 村田、涙の王座返り咲き――。ボクシングのダブル世界戦は12日、エディオンアリーナ大阪で行われ、WBA世界ミドル級タイトルマッチは前王者で同級4位の村田諒太(33=帝拳)が王者ロブ・ブラント(28=米国)に2回TKO勝ち。米ラスベガスでの敗戦から9カ月ぶり再戦でリベンジを果たし、ベルトと誇りを取り戻した。

 本能のままに前に出た。打ち続けた。2回、村田の一瞬の隙を突いた右ストレートがブラントの顔面を捉えた。そこからの怒濤(どとう)の猛ラッシュ。起き上がった相手にボディー、アッパーを放つと、王者の目はうつろになった。「その瞬間(相手の)心を折れた。勝ったと思った」

 米ラスベガスから故郷・奈良に近い大阪に舞台を移した大一番。「はよ止めろよ、と思った。止めたやろと思って一瞬バックステップもした」。疑惑の判定で敗れた17年5月のエンダム初戦と同じレフェリー。村田はその時の“悪夢”も前回のブラント戦の屈辱もまとめて払しょくし、リング上では涙を浮かべた。

 「こんな僕にチャンスをくれた本田会長、感謝しています。南京(南京都高)が、東洋大が、帝拳が僕に居場所をつくってくれなかったら今の自分はなかったと思う」

 昨年10月の初戦は8~10点差をつけられて0―3の完敗。気持ちは「98%ぐらい」引退に傾いた。だが、「あのボクシングが集大成でいいのか?」と自分に問い掛けた時、答えはNOだった。再起を決意した時点ではブラントとの再戦は決まっていなかったが、「前と同じ試合をしたら負ける」。村田は“変化”を求めた。それを支えたのは村田の言う「チーム帝拳」のスタッフだった。

 もちろん負ければ引退の覚悟もあった。再戦を「これが最後の試合になるのか、村田をもっと見たいと言われるのかジャッジメントされる試合」と位置付けた。だからこそ、村田は“村田家の鉄則”を破り、ひそかに家族を会場に呼んでいた。自らの生きざまを見せると決めて臨んだ。「何も考えないようにしていた。瞑想(めいそう)というか、呼吸だけ考えて」。リングに上がるまで冷静だったが、ゴングと同時に思いを一気に爆発させた。ただひたすら打ち合い、334秒でブラントを沈めた。

 リング上でのインタビュー。村田は息子に言葉を投げ掛けた。「明日からパパといくらでも、野球でもプールでも行けるからな!」。家族との時間を犠牲にしてまで奪い返したベルト。平成のボクシング史に大きな足跡を残してきた村田は、平成の“忘れ物”を自らの拳で完結させ、令和へ踏み出した。

 ▽村田―ブラントVTR 序盤から手数を繰り出してきた相手に対し、村田は打ち終わりにパンチを集めた。1回こそやや劣勢だったものの、2回は果敢に圧力を強めた。上下へ打ち分けながら連打でダウンを奪うと、再開後にラッシュを仕掛けた。ふらつく相手に右の強打を立て続けに浴びせたところで主審が試合を止めた。ブラントは最後は防戦一方だった。

 《日本ジム5例目》日本のジム所属世界王者で、王座を追われた相手と再戦したのは村田で15例目。勝って返り咲いたのは輪島功一(2回)、辰吉丈一郎、徳山昌守に続き4人、5例目。村田がミドル級世界王座返り咲き。同階級で2度世界王者となった日本人はもちろん初めて。再戦でリベンジしての戴冠は、最初に王座を獲得したエンダム(フランス)戦と同じ。

 ◆村田 諒太(むらた・りょうた)1986年(昭61)1月12日生まれ、奈良市出身の33歳。南京都高(現京都広学館高)―東洋大。11年世界選手権ミドル級銀、12年ロンドン五輪同級金メダル。13年8月プロデビュー。17年5月に世界初挑戦でエンダム(フランス)に判定負けも、10月の再戦で7回TKO勝ちしてWBA同級王座獲得。日本人五輪メダリスト初の世界王者に。身長1メートル83、リーチ1メートル89の右ボクサーファイター。家族は佳子夫人と長男・晴道くん、長女・佳織ちゃん。

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