【馬淵史郎 我が道24】忘れられない野球人 携帯の「上甲正典」は消せない

[ 2026年3月25日 07:00 ]

済美時代の上甲正典監督
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 長い監督人生で、いろんな人との出会いがあった。お世話になった人、教えていただいた人、挙げればきりがないが、宇和島東と済美(ともに愛媛)で監督をされた上甲正典さんは、その中でも忘れられない野球人だ。

 俺も愛媛の八幡浜の出身。海を見て育ったという共通点もあった。三瓶高校の選手だったころは、もう宇和島東でコーチをされていた。87年(昭62)から明徳義塾でコーチとなったころから、上甲さんにお願いして練習試合を組んでもらった。そのころから目指す監督であり、頼れる兄貴であり、仲のいい兄弟分という関係だった。

 練習試合だったら100試合前後はやったはず。平井正史(元オリックス、中日)がいたころは何度やっても勝てなかったな。上甲さんは松山商に勝つチームを目指して、ど真ん中に投げても三振が取れる投手、ボール球でも本塁打にできる打者をイメージして、徹底的にパワー野球に向かっていた。

 その情熱に教えられることが本当に多かった。トータルでは明徳義塾は練習試合の9割方は勝っていたと思う。負けるのが本当に嫌いな監督だった。明徳義塾が勝っていたら「これで終わり。さあ第2試合や」と途中でやり直しとなる展開も、珍しいことではなかった。わざわざ夜に電話をしてくることもあった。明徳義塾がまだ練習をしているのか確認するためだった。電話の後ろから、カンカンと打撃練習をする音が響いていた。

 勝利に対する執念は人一倍で、頭も働く人だった。宇和島東のボート部がエルゴメーターという全身を鍛えるトレーニング機器を使っているのを見て「これはいい」といち早く採用していた。一方で新しいものを取り入れて、効果がないと分かったら、すぐに切り替えた。勝つためなら、朝令暮改もOKという姿勢だった。

 済美の監督として選抜で初出場初優勝した04年(平16)の準決勝で明徳義塾が対戦した。その前の晩だ。「メシ行かんか」と電話がかかってきた。焼き肉を食べたら、今度は「サウナ行こう」と来た。翌日が準決勝。早めに切り上げようとしたら、「先発は誰や」と聞いてきた。いやあ困った。何度も何度も聞かれた。それが上甲さんの執念。試合も6―7で負けた。これが甲子園で最初で最後の対戦になった。

 8歳年上の上甲さんは14年(平26)9月2日に胆管がんのため、67歳で亡くなった。薬剤師の資格も持っていて、健康には気をつけていたのにな。娘さんから連絡を受けて、亡くなる前に見舞いをしたことが忘れられない。「また来るからはよう治しよ」と言ったら、背中を向けたまま手を振った。顔を見ようとしなかった。あの別れがつらかった。携帯の「上甲正典」はまだ消していない。これからも消すことはできないな。

 ◇馬淵 史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日生まれ、愛媛県八幡浜市出身の70歳。三瓶高―拓大。83年に社会人の阿部企業で監督に就任、86年に都市対抗初出場、日本選手権で準優勝。90年から明徳義塾の監督に就任、02年夏の甲子園で優勝。監督として甲子園通算39回出場(春17回、夏22回)は歴代1位。甲子園55勝は歴代4位。23年には日本代表監督としてU―18W杯優勝を果たした。

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