【馬淵史郎 我が道9】なかなかの会社だった阿部企業 工事現場で夜勤しながらの監督生活

[ 2026年3月9日 07:00 ]

阿部企業では夜勤明けの選手を鍛えた
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 拓大を卒業して、松山で建設資材を扱う愛媛物産に就職した。社会人で野球をする手もあったが、満員電車が苦手でね。都会ではなく、やっぱり田舎に帰ろうと思った。拓大の先輩もいたし、軟式野球のクラブチームに入って、三瓶高で指導を続ける田内逸明さんの手伝いをしようと決めた。

 ところが秋の大会で母校を応援しようと思ったら、社員旅行と重なり「全員参加だ」と主張する上司と折り合いが悪くなり退社。その後はニッタンガスというプロパンガスの会社で働き、配達もしていた。そんなときに田内さんから呼ばれた。「神戸の阿部企業で監督をすることになった。選手兼コーチでお前も手伝え」。滝川高の吉本宗泰監督の仲介だったと聞いた。仕事にも慣れた時期で周囲は反対したが、恩師の頼みは断れない。26歳で社会人野球の世界に入った。

 チームはほぼ休部状態だったから、一からの選手集めに奔走した。実績ある選手には見向きもされない。大学で補欠だったり、故障でプレーできないレベルに声をかけた。スポニチの記者さんにも選手集めの情報で協力してもらったな。ところが、何とかチームの格好がついた83年(昭58)1月に田内さんがくも膜下出血で急死された。

 松山にこれで戻ろうかと思ったら、会社は「後任として監督をやれ」と言ってきた。話が違うと思ったが、自分が声をかけた選手を見捨てるわけにもいかない。次の人が決まるまで、のつもりで同年に監督を受けた。

 阿部企業というのはなかなかの会社だった。神戸市垂水区に本社があって、仕事は土木業に警備業。ガスや道路工事の交通整理、病院やビルの警備が野球部関係者の仕事やった。仕事はきつかった。俺も深夜に道路工事の現場に立った。冬は本当に寒かった。「こんなとこで工事すな!」という文句もしょっちゅう言われた。

 夕方5時から夜勤の14時間勤務をしてからが練習の時間だった。午前9時から昼まで練習し、仮眠してから、また夜勤の繰り返しだった。しかも専用球場はない。50メートル四方の空き地が主な練習場。それでも神戸製鋼や三菱重工神戸、新日鉄広畑といった社会人の強豪に「勝ってみい」と会社は要求してきた。

 初めての監督と過酷な環境。慢性の睡眠不足で「もう辞めたい」が口グセになっていた選手たちに、少しでも体力をつけてやりたい、と自分でおにぎりや味噌汁を作って、食べさせた。雨の日の練習では会社の空いた会議室にネットを張って、ソフトボールを打ち込ませたこともあったな。

 浮き沈みの激しい人生を何とか頑張ってこられたのは、この阿部企業の時代があったからだと思っている。「どんな状況でも人間はできないことはない」が信条になった。貴重な経験だった。

 ◇馬淵 史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日生まれ、愛媛県八幡浜市出身の70歳。三瓶高―拓大。83年に社会人の阿部企業で監督に就任、86年に都市対抗初出場、日本選手権で準優勝。90年から明徳義塾の監督に就任、02年夏の甲子園で優勝。監督として甲子園通算39回出場(春17回、夏22回)は歴代1位。甲子園55勝は歴代4位。23年には日本代表監督としてU―18W杯優勝を果たした。

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