甲子園の“魔力”を知る男 和歌山東・山根コーチがセンバツ初出場のナインを強力後押し

[ 2022年1月30日 07:30 ]

当時の記憶を語った和歌山東・山根翔希コーチ
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 8年前の記憶は、今も脳裏に焼き付いて離れない。28日に初のセンバツ出場を決めた和歌山東にただ一人、選手として甲子園出場経験のあるスタッフがいる。山根翔希コーチは、同じく出場を決めたライバル校の市和歌山出身。14年夏の甲子園で処理した“セカンドゴロ”で、涙をのんだ。それ以来となる聖地に戻ってくる。

 「引きずっているわけではないんですが、ちゃんと吹っ切れたかというと、まだ…。試合の映像や写真も、進んで見ようとは思いません。一度、見せてもらったことがあるんですが、目を背けてしまいました」

 本紙が“そこに甲子園の魔物がいた”と報じたそのプレーは、1回戦の鹿屋中央戦で起こった。1―1の延長12回裏、1死一、三塁。1点でも取られれば敗退が決まる。守勢の市和歌山は中間守備を敷き、内野ゴロを打たせて併殺を奪うか、本塁で三塁走者を刺す態勢だった。打球は二塁を守っていた山根コーチのところへ。少し体勢を崩したが、本塁に投げればタッチアウトになる可能性は高かった。だが…。

 「あの場面になったとき、伝令も来て、マウンドに集まって、頭ではわかっていたんです。焦りとか、暑さもあったんでしょうね。三塁ランナーが視界に入って、本塁に放らなあかんとわかっていたのに、体は一塁に向いていた。一塁でアウトにできるという、反射的なものだったと思います。一塁手が取った瞬間に“あっ”となった。その時にはもう遅かった。一塁に投げたときの残像は、今でもフラッシュバックします」

 なぜ、本塁ではなく一塁へ投げたのか。明確な答えは本人でさえもわからない。当たり前だが、負けようと思ってプレーする者などいない。守備は反復練習しかない。きっと彼は誰よりも、自分のテリトリーに飛んできた打球を一塁でアウトにする練習を積んできたはずだ。体が勝手に反応したのは、残酷な結果ではあったが、努力の賜物と言えなくもない。公式記録は一連のプレーを「二塁内野安打」と結論づけている。野選でも、失策でもなかった。

 このプレーをグラウンドレベルで目の当たりにした筆者にとっても、忘れられない出来事だ。カメラマンとして一塁カメラ席から撮影していたのだが、試合後、すさまじい慟哭(どうこく)だった。無理もない。半田真一監督とチームメートに抱えられないと、歩くこともできない状態。胸が引き裂かれる思いだった。今でこそはっきりと、丁寧に記憶をたどってくれたが、言葉を選ぶ口調には、背負ってきたものの重さを感じずにはいられなかった。

 山根コーチは高校卒業後、桃山学院大で4年間プレーした後、あの時、側に寄り添い続けてくれた半田監督と同じ商業科教諭として、教員の道を志した。講師として、1年目は熊野で野球部を指導。翌年、新翔の空手道部で副部長を務めた。昨年4月に和歌山東へ転任し、現在に至る。

 「いい意味でも、悪い意味でも、甲子園の怖さは僕が一番よく知っていると思う。どうしなきゃいけないのか、内野手なので、グラウンドの土の状態、グラウンドの形状、芝の切れ目とか、実際プレーした中で伝えられる部分はある。春と夏で条件は違ってくるんですけど、準備不足にならないように僕がしっかり言えたら、いつも通り入っていけると思う。そこが僕の役目。甲子園は1球で沸くし、喜びを感じられる半面、1球で人生が変わってしまうこともある。生徒に同じ思いをしてほしくないというのもあります」

 夢がある。生まれも育ちも和歌山。「半田先生からは常に“チームのために何ができるか”と言われてきました。今は米原(寿秀)監督の下で、新しいことをたくさん勉強させてもらっています。僕は高校野球に育ててもらったので、和歌山の高校野球にいろんなところで貢献できる人間になりたいんです」。センバツまであと約1カ月半。甲子園の“魔力”を知る男は貴重な経験を最大限に還元し、和歌山東ナインを強力に後押しする。
(記者コラム・北野 将市)

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