【タテジマへの道】青柳晃洋編<下>打倒・私立を成し遂げた高校時代

[ 2020年4月22日 15:00 ]

川崎工科時代の青柳

 スポニチ阪神担当は長年、その秋にドラフト指名されたルーキーの生い立ちを振り返る新人連載を執筆してきた。いま甲子園で躍動する若虎たちはどのような道を歩んでタテジマに袖を通したのか。新型コロナウイルス感染拡大の影響で自宅で過ごす時間が増えたファンへ向けて、過去に掲載した連載を「タテジマへの道」と題して復刻配信。今日は15年ドラフトで5位指名された青柳晃洋編(下)を配信する。

 
 中学では「投げたい」という欲求が満たされることはなかっただけに、迷うことなく高校でも野球を続けることを決断した。けがに泣いた分、反骨心からモチベーションは高まる一方だった。母子家庭ということもあり、公立の川崎工科への進学を決めた。「打倒私立」をチームの目標として掲げる環境の中で、飛躍とともに逆襲が始まった。

 3年の夏、高校生活最後の夏だった。神奈川県大会の初戦、晃洋のいる川崎工科は私立の強豪・横浜隼人と激突した。願ってもない一戦だった。

 1年秋から背番号1を付け、磨いたすべてをぶつけた。12安打され、5失点しても気迫は最後まで折れなかった。味方も6点を奪い、最少得点差を守り抜いた。「公立でも強い私立に勝てたことは自信になった」。高校時代のベストゲームには1勝以上の価値を感じた。横浜隼人は中学時代に一度は志した進学先だったからだ。

 高校へ進むに際して最初は強豪私学に憧れた。大多数の球児と同じように甲子園出場を夢見たからだ。全国でも最大激戦区の神奈川県下ではなおさらだった。ところが、家庭の事情が許さなかった。

 小学低学年の頃に両親が離婚。以降は母、兄と3人で暮らしてきた。ヤクルト配達員の仕事をしながら家計を切り盛りする母・利香さんの姿を近くて見てきた。「私学は厳しいかも…」。そんな母の悩みも聞いた。

 中学3年夏、テレビで見た公立校の奮闘が印象的だった。神奈川県大会でベスト8まで進出した川崎工科高校だ。「親に迷惑をかけたくない。ここなら…」。自宅からも通える距離だった。「川崎工科に決めた時点で正直、甲子園はあきらめました」。目標は打倒私学へ変わった。

 1年夏からベンチ入りし、秋にはエースになった。故障に苦しんだ中学時代とは違った。母も試合の度に球場に駆け付けた。「中学の時は投げることも滅多になかったので、試合で投げられてる姿を見るだけでうれしかった」。母子にとって充実の日々だった。

 3年春は県ベスト16。夏も同じベスト16まで進んだ。進学時に「あきらめた」という甲子園は遠い場所のままで終わっても、公立の雄として存在を見せつけた。その集大成が横浜隼人を撃破した勝利だった。

 大学でも野球を続けることは早くから決めていた。もちろん、母の負担を少しでも減らすことが第一条件だった。帝京大からは授業料の減免など特待生として誘われ、寮もあった。迷う理由はなかった。1年春のリーグ戦から救援登板ながら出番も与えられた。

 2年春の城西大戦。9回1失点の力投で初の完投勝利を挙げた時だ。ウイニングボールを観客席へ投げ入れた。観戦に訪れていた母へ向かって。「取っといて!」。照れながら素っ気ない言葉と一緒に贈った。思い出の記念球はいまも自宅のリビングに飾られている。

 野球を続ける中で不自由と思ったことはなかった。グラブも、スパイクも必要な時は買ってもらった。数え切れない母の支えを胸に刻んだ。「一番感謝したい。これから頑張って、少しずつ少しずつ返していきたいです」。プロの世界へ進んでも「親孝行」が最大の原動力になることは変わらない。(2013年11月17、18付掲載 おわり)


 ◆青柳 晃洋(あおやぎ・こうよう)1993年(平5)12月11日生まれ、横浜市出身の21歳。小学5年から寺尾ドルフィンズで野球を始める。生麦中では軟式野球部に所属。川崎工科では甲子園出場はなく3年夏の神奈川大会16強が最高。帝京大では1年春から登板しリーグ戦通算15勝。最速144キロにスライダー、カットボール、シンカー。1メートル81、79キロ。右投げ右打ち。

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