【タテジマへの道】北條史也編<上>運命を変えた言葉で青森へ

[ 2020年4月13日 15:00 ]

北條は浜寺ボーイズでは捕手も経験。野球教室では元・阪神の中田良弘氏(右)から指導を受けたことも

 スポニチ阪神担当は長年、その秋にドラフト指名されたルーキーたちの生い立ちを振り返る新人連載を執筆してきた。今、甲子園で躍動する若虎たちは、どのような道を歩んでタテジマに袖を通したのか。新型コロナウイルス感染拡大の影響で自宅で過ごす時間が増えたファンへ向けて、過去に掲載した数々の連載を「タテジマへの道」と題して復刻。第1回は12年ドラフトで2位指名された北條史也編を2日連続で配信する。

 冬になれば辺り一面が雪に覆われる青森県八戸市。自由にグラウンドを使うことすらままならない地から、スター候補生が甲子園に帰ってくる。光星学院の北條史也は、運命の一言で誕生した。
 美木多中3年の夏、「オール狭山ボーイズ」で遊撃手として活躍していた史也。同い年の選手が光星学院への進学を希望しているということで、当時、同校監督を務め、坂本(巨人)の恩師でもある金沢成奉(せいほう)氏(45=現明秀学園日立監督)が練習視察に訪れていた。

 史也にとっては普段通りのプレーも、金沢氏にとっては、驚きの連続だった。その場で声を掛けられた。「君を坂本以上の選手に育てる!」―。予期せぬ言葉。青森県内の別の強豪校から興味を抱かれていたものの「同じ青森に行くのなら、育てるとおっしゃってくれている方に…」と母・ゆかりさん。(47)。史也も「これで進学を決めました」。後に「阪神・北條」を生む大きな分岐点だった。

  「光星学院の父母会の方々は本当の親のようにサポートしてくれたし、史也は2年半、今後一生できない濃密な時間を過ごしました。1日でも早くテレビの画面を通して、元気にプレーしている姿をお世話になった人たちに見せてほしい」―。

 ゆかりさんの思いを、当然、史也も抱いている。プロへの道を開いてくれたと言っていい光星学院。「行って、本当によかった」。今夏の甲子園で4本のアーチを放ち、同校を史上初の3季連続準優勝に導いた天才打者は幼少期から非凡なものを見せていた。

  1994年(平6)7月29日に産声をあげた。51センチ、3098グラムは兄・優治さん(20)、弟・裕之さん(16)の3兄弟の中では最小。3歳の秋から体操教室に通い出すと同時に、ソフトボールチーム「美木多キングス」に入団。当時監督を務めていた父・映彦さん(46)との“親子鷹”だった。

 体操は美木多小4年の夏まで続けたが「浜寺ボーイズ」への入団をきっかけに終止符を打った。ただ、小3で鉄棒全国2位に輝き、現在でもバック転ができるズバ抜けた身体能力が野球で生かされるまでに、時間はかからなかった。ボーイズ界で確かな足跡を残した15歳は、田村(ロッテ3位)とともに、さらなる成長を求め青森へと戦いの場を移した。 (12年11月20日付掲載)

 
 ◆北條 史也(ほうじょう・ふみや)1994(平6)7月29日、堺市出身。3歳から「美木多キングス」でソフトボールを始め、美木多小4年から「浜寺ボーイズ」に入団。美木多中時代は「オール狭山ボーイズ」で3年から本格的に遊撃手。光星学院(青森)では1年秋に「3番・遊撃」のポジションを獲得。田村(ロッテ3位)とともに中心選手として活躍し、2年夏から3季連続甲子園準優勝に輝いた。高校通算25本塁打。1メートル77、75キロ。血液型O。右投げ右打ち。

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