【決断】ヤクルト新垣“松坂世代”に託す思い「引退を後悔できたらうれしい」

[ 2016年12月17日 09:30 ]

決断2016ユニホームを脱いだ男たち=ヤクルト・新垣渚投手(36)

11月、甲子園での合同トライアウトで登板を終え、笑顔でマウンドを降りる新垣
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 現役引退の報道が流れた11月下旬だった。新垣はソフトバンク時代に同僚だった川崎(カブスからFA)から連絡をもらい、「米国でやりましょう」と言われた。父・隆さん(63)からも「メジャーに行ったらどうだ」と声を掛けられた。「ムネ(川崎)は冗談でねぎらいの言葉だったと思う。家族を第一の基準に考えるとね。これからは嫁や子供のために何かしてあげたい」。吹っ切れた表情でそう話した。

 故障と闘い続けた野球人生だった。小5の時に右すねを骨折した。ひびが入ってから1カ月放置したため、骨の一部が炎症を起こして腐る重傷だった。同じ箇所を高2まで計4回手術。走れない影響で上半身に負担がかかり、腰、右肘、右肩も痛めた。中学で満足に投げた期間は半年間のみ。沖縄尚学でボクシング部に入ることを決意したが、推薦受験の書類を期限内に出し忘れたため、沖縄水産に進学して野球部に入った。「プロ野球なんて全然。沖水でエースになれるとも思わなかった。人生って分からない。周りに恵まれている。神ってるよ」と笑った。

 何度も野球を辞めようと思ったが「あと一回」の言葉に救われた。故障が癒えない高1の春。退部を決意。「両親に“あと一回投げてから考えよう”と言われた。そこで踏ん張って甲子園にも行けた。逃げ道は大事。逃げ道があるから人間は頑張れる。両親に感謝です」と振り返る。今季終盤。球団から引退試合の話があった時も志を貫き、一度は自由契約となった。「あと一回トライアウトを頑張ろうと。(会場が)甲子園というのもあった。始まりの場所だから」。高3の春夏に出場して当時史上最速の151キロを計測。全国に名をとどろかせた思い出の地が最後のマウンドになった。

 剛速球と「バニッシュ(消える)ボール」と呼ばれた切れ味鋭い縦のスライダーで強烈な衝撃を残した野球人生。20年以上切磋琢磨(せっさたくま)してきた松坂、和田(いずれもソフトバンク)、杉内(巨人)ら同学年の「松坂世代」には特別な思いがある。「まだできるし、頑張っている姿は支えにもなる。活躍して自分が(引退を)後悔するかもしれないし…。そうなったらうれしいね」。投げられる喜びを仲間に託し、今度は指導者になる夢を追いかける。 (平尾 類)

 ?新垣 渚(あらかき・なぎさ)1980年(昭55)5月9日、那覇市生まれの36歳。沖縄水産で3年春夏に甲子園出場。九州共立大を経て、02年にドラフトの自由獲得枠でダイエー(現ソフトバンク)に入団。2年目の04年から3年連続で2桁勝利を挙げ、04年に最多奪三振(177)のタイトルを獲得した。101暴投は歴代3位。通算64勝64敗、防御率3・99。1メートル90、83キロ。右投げ右打ち。

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