広島・鈴木誠也のルーツ 父の教えは「勉強するなら、走ってこい!」

[ 2016年6月24日 07:50 ]

お立ち台でこぶしを掲げる鈴木誠也

ボールパーク 広島・鈴木誠也外野手

 交流戦を終えたプロ野球は、セ、パ両リーグ内の対戦が24日に再開する。2位・巨人に6ゲーム差をつけ、セの首位を独走する広島は阪神を本拠地に迎える。注目は3試合連続決勝弾で交流戦を締めくくった鈴木誠也外野手(21)だ。日本ハム・大谷世代のプロ4年目。出身は東京都荒川区と生粋の下町っ子だ。幼少の頃から熱心に指導した父・宗人さん(51)らに、「神ってる男」、誠也のルーツを聞いた。 (取材・構成 鈴木 勝巳)

 父・宗人さんの教えは単純明快だった。「勉強するなら、走ってこい!」。おまえは野球で食べていくんだ――。子供の頃から言い聞かせ、誠也も夢に向かって突き進んだ。東京の下町、荒川区町屋。区立第九中3年時、体育と社会以外の7教科で通知表は「オール1」だった。明けても暮れても野球。まさに町屋を舞台にした漫画「巨人の星」の、星一徹&飛雄馬の親子のようだった。

 「もう、やんちゃな悪ガキでね。おまえはバカか大物かのどっちかだ、とよく言ってました」。誠也は1歳の頃から、プラスチックのバットを握ってゴムボールを打っていた。区立第五峡田(はけた)小3年の時、荒川リトルで本格的に野球を開始。当時、宗人さんの発案で、荒川リトルシニア野球協会事務局長・石墳(いしづか)成良さん(53)の町工場「相馬工業」で長さ80センチ、太さ3センチほどの鉄のバットを作ってもらった。それでゴルフボールを打つ。百発百中で打ち返したという。

 テレビ東京の番組「出没!アド街ック天国」に登場したのは小5の時。宗人さんが経営していた喫茶店を取材陣が訪れた際、店舗横の倉庫でネットを張って練習していた誠也のことが話題に。「平成の星親子」として紹介された。「僕も周囲に“一徹みたい”と言われた。あんなに厳しくないけど…」と笑う宗人さんだが、派手な親子げんかは日常茶飯事だった。

 「あいつは殴られても歯向かってくる。負けず嫌いというか…」。中3の時。全国大会の予選で敗れた誠也はグラウンドにヘルメットなどを投げつけ、号泣しながら大暴れした。これに宗人さんが怒った。平手で思い切り殴りつけた。「野球をなめるな!」「なんだ、クソ親父!」。売り言葉に買い言葉。それでも帰りの車の中で誠也は「腹減ったよお」。本音でぶつかっていたから、引きずらない。「今ではいい思い出です」。一心同体の、熱い親子だった。

 中3時には投手として138キロをマークし、「私立の一流校とか、40校近くから誘いが来た」と恩師である石墳さん。誠也は二松学舎大付に進学して、野手として12年ドラフト2位で広島に入団した。今でもオフに帰省すると、誠也は石墳さんの町工場を訪れ、倉庫でトス打撃に汗を流す。まさに原点。人情熱い下町が、今をときめく若ゴイのルーツだった。

 「あいさつと笑顔。それを忘れるな」。勉強はしなくても、宗人さんは誠也に人間として大切なことを教えた。人懐っこい性格で、誰からも好かれる。3試合連続決勝弾。翌20日、2人はLINEでやりとりをした。そこには喜びと、親子の強い絆があった。

 ▼鈴木 小学2年から(町工場に)通い始めました。毎週木曜日にシニアの中学生に交じって打たせてもらったり。自由に使わせてもらいました。ルーツ?まあ、そうですね。遊びたいのに、無理やり行かされましたけど(笑い)。 

 ◆鈴木 誠也(すずき・せいや)1994年(平6)8月18日、東京都生まれの21歳。二松学舎大付3年夏の東東京大会はベスト8止まりで甲子園出場はなし。高校通算43本塁打。12年ドラフト2位で広島入団。13年9月14日の巨人戦でプロ初出場。14年11月には21Uワールドカップに日本代表として出場、大会首位打者に輝いた。1メートル81、87キロ。右投げ右打ち。今季年俸1700万円。

 ◆鈴木の3試合連続決勝アーチ 17日のオリックス戦(マツダ)の4―4で迎えた延長12回、無死二塁で比嘉から左翼へサヨナラ2ラン。翌18日には2点を追う9回1死一、三塁で、平野から左中間に逆転サヨナラ3ランを放った。球団の2試合連続サヨナラ弾は84年長嶋以来、32年ぶり。さらに19日は同点の8回に山崎福から左翼へ勝ち越し10号ソロ。3試合連続決勝弾は96年江藤(現巨人打撃コーチ)以来20年ぶりで、鈴木は3日連続のお立ち台でおなじみのフレーズ「最高で~す!」を計16度、叫んだ。

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