日本の誇り!錦織 全米OP日本男子96年ぶり4強…GS自身初

[ 2014年9月5日 05:30 ]

テニス全米オープン男子シングルス準々決勝でワウリンカを破り、拳を高々と掲げた錦織(AP)

テニス全米オープン第10日 男子シングルス準々決勝

(9月3日 ニューヨーク ビリー・ジーン・キング・ナショナル・テニスセンター)
 第10シード錦織圭(24=日清食品)は第3シードのスタニスラス・ワウリンカ(29=スイス)を3―6、7―5、7―6、6―7、6―4で撃破。4回戦のラオニッチ戦に続き4時間を超える激闘を制し日本男子では1918年の熊谷一弥以来96年ぶりとなる準決勝進出を決めた。4大大会初のベスト4入りを果たし、6日(日本時間7日)の準決勝では世界1位のノバク・ジョコビッチ(27=セルビア)と対戦。日本人初の4大大会シングルス決勝進出に挑む。

 ガッツポーズは喜びの感情が爆発する瞬間だ。しかし、この日の錦織のそれはひどく義務的なしぐさに見えた。ワウリンカのフォアがネットにかかりゲームセット。まずワウリンカと、次に主審と握手を交わすとベンチにリストバンドを放り投げた後、コート中央に戻ってようやく右手を1回突き上げた。
 うれしくないはずはない。「チームのボックス席を見たらみんな跳び上がってたけど、自分は疲れていて喜ぶ元気もなかった」。自身初の4大大会ベスト4に、日本男子96年ぶりの快挙。それが喜びを爆発させるエネルギーにならないほど体は空っぽになっていた。
 
 4時間15分。4時間19分の激闘となった4回戦ラオニッチ戦から中1日でまたも4時間超え。錦織が自在のストローク  で相手を翻ろうすれば、ワウリンカも得意のバックハンドで決定打を放った。一進一退の攻防が続いたが第4セット以降は錦織にとって我慢の展開となった。

 リターンゲームでほとんどポイントが取れず、相手サーブをまともに返せなくなった。「体力的なものもあった。リターンで動けなかった」。合計ポイントはワウリンカの181に対して177。それでも耐えてサービスゲームのキープに集中したことが、勝負を決める第10ゲームのブレークにつながった。体力の限界に近づく中、来るか分からないチャンスを待ち続ける。ラオニッチ戦は敗色ムードから巻き返すタフさを見せたが、この日も違った形で折れない心の強さを示した。

 その姿を見た父・清志さん(58)は「根本にテニスを楽しむ姿勢がある。俺が考えるよりもずっとテニスが好きなのかもしれないね」と言った。飽きるほどラケットを振り続けるプロ選手。それなのに今でも地元の松江市に帰った時は「パパ一緒にやろうよ」と子供の頃のように父親と球を打つのだという。

 09年に右肘手術でランキングを失った。ツアーに戻れないのではないかという不安との闘いだった。4時間を超える試合は確かにつらい。チャンスを待ち続けるのも大変だ。だが、その苦しみは病院で動かない腕を眺める気分とは次元が違う。

 この日の第3セットには股抜きショットを試みた。テニスを楽しむ気持ちがあるからこそ遊び心あふれるプレーが生まれる。今は大きなケガもなく、思ったようにプレーができる。「どんどん敵が強くなる。油断せずに決勝まで行きたい」。次の相手は世界1位のジョコビッチ。4大大会の準決勝。これ以上テニスを楽しめる舞台はない。

 ◆熊谷 一弥(くまがい・いちや)1890年(明23)9月10日、福岡県大牟田市出身。旧制宮崎中(現宮崎大宮高)時代は野球部主将。慶大進学後、硬式テニスを始める。1916年に全米選手権に初出場し、当時全米2位のビル・ジョンストンを撃 破。慶大卒業後、三菱合資会社銀行部(現三菱東京UFJ銀行)に勤務し、ニューヨーク駐在員に。18年の全米選 手権で4強入り。20年アントワープ五輪では、シングルス、柏尾誠一郎と組んだダブルスでともに銀メダル。こ れが日本が五輪で獲得した初めてのメダルとなった。1951年、デ杯に復帰した日本の監督 に就任。68年8月16日、77歳で死去。

続きを表示

この記事のフォト

2014年9月5日のニュース