上野由岐子 五輪種目から外れて悩み続けた13年 エースの苦悩と葛藤に密着

[ 2021年8月14日 10:00 ]

金メダルを手に笑顔を見せるソフトボール日本代表の上野由岐子(C)TBS
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 ソフトボール日本代表・上野由岐子投手(39=ビックカメラ高崎)が14日放送のTBS「バース・デイ」(土曜後5・00)に出演。04年のアテネ五輪から密着し続けた同番組は、東京五輪でソフトボール日本代表を13年越しの連覇に導いたエースの苦悩と葛藤に迫った。

 17年前。04年のアテネ五輪で初戦のオーストラリア戦の先発を任されたものの4回3失点。8日後、決勝進出をかけて、再びオーストラリアと対戦したが、マウンドに上がったのは当時のエース・高山樹里でリベンジの機会は与えられず敗戦した。アテネ五輪で銅メダルを獲得も「次はもっといい色を目指したい」と満足しなかった。

 雪辱を誓って臨んだ08年北京五輪。準決勝の米国戦に登板し、そのわずか5時間後の決勝進出をかけたオーストラリア戦にも連続登板。さらに翌日の決勝の米国戦でも先発。2日で3試合413球を投げて、日本を悲願の金メダルに導いた。優勝後、上野は「これをきっかけに次の次のオリンピックで、もう一度ソフトボールを復活するきっかけになればと思います」と、この時すでに4年後のロンドン五輪で、ソフトボールが五輪種目から外れることが決まっており、自身の思いを吐露した。

 金メダル獲得後、国内のソフトボールの試合は満員の観客で球場が埋まった。しかし「ソフトボール復活」という上野の思いは届かず、09年10月、ロンドン五輪に続きリオ五輪でもソフトボールが競技種目から外れることが決まった。すると、あれほど賑わっていた球場からは日に日に観客が減っていった。上野は「オリンピックの種目じゃなくなるだけで、こんなにも注目されなくなるんだ」とショックを受けた。

 戦う目標を失った上野は北京五輪後の2年間代表を辞退。「日の丸を背負うだけの自覚だとか責任だとか、いろんなものを考えることができなかった」と、引退の2文字がよぎった。そんな上野を繋ぎ止めたのは母の存在。母に悩みを打ち明けると「あなたは子供たちにとってスターなんだからスターの自覚をしなさい」と伝えられたという。

 その言葉を胸に上野はソフトボールを未来へとつなぐため日本代表に復帰すると、16年8月のIOC総会で東京五輪でソフトボールが13年ぶりに復活することが決まった。上野は代表チームの選手、さらに18歳以下の選手たちに「ピッチャーだけ自分の意思でボールを投げることができる。自分の気持ちがボールに伝わるポジション」などと、自らの経験、考え方などを惜しみなく伝えた。その中には、東京五輪でチームを救った後藤希友投手(20=トヨタ自動車)もいた。

 東京五輪まで残り2年半。若手の成長を実感する一方で、五輪で臨む投球スタイルに悩み「なかなか自分自身のモチベーションがうまく上がってこない」と葛藤する上野にアクシデントが襲う。19年4月の国内リーグ戦に登板した上野は、打球が顔面を直撃し下顎を骨折する全治3カ月の大ケガ。だが、この大ケガに「ちゃんと集中していなかった。本当に神様がそろそろ本気出せよと本当に怒っている」と、悩みを打ち消すキッカケになった。

 迎えた東京五輪でこれまでの悔しさ、葛藤を全てボールに込めた。決勝まで勝ち進んだ日本代表のマウンドにはエースの上野。ベンチに戻るたび、マッサージを受けるなど、まさに満身創痍だった。それでも、最終回のマウンドへ向かい、13年越しにつかんだ五輪連覇でも輪の中心にいた。2度目の金メダルを獲得した翌日に「本当に最高なマウンドでした。やっぱりここまで13年間 長かったなと言う思いと、諦めずにずっと追い続けてよかったなという思い。いろんな想いが詰まった13年間」と振り返った。

 次回のパリ五輪でソフトボールは競技種目から外れてしまう。それでも「やっぱり最後諦めなければ夢は叶う。もう一度大きな声あげてアピールしていけるようにと思います」と迷いはない。ソフトボールの五輪復活へ、上野の物語はこれからも続いていく。

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