無農薬有機農業、反戦運動…文太さんは「種をまいて去った」

[ 2014年12月2日 05:30 ]

1985年12月、長男の加織さんと散歩する菅原文太さん

 菅原文太さんの死去は1日午後2時40分すぎ、東映が報道各社に宛てた文書で公表。この中で、妻でマネジャーでもあった文子(ふみこ)さんが心境を明かした。晩年は山梨県内で一緒に農業を営んだ夫妻らしく、「小さな種をまいて去りました」と旅立った夫についてつづった。

 名前に同じ「文」が付き、9歳年下の文子さんは公私にわたって文太さんを支えてきた。

 晩年を過ごした山梨県北杜市の農園では仲良く畑仕事をする姿がしばしば目撃されていた。ある近所の人は「今年も9月か10月に2人を見ました」と話している。

 夫の悲報を明かす文書では、「7年前に膀胱(ぼうこう)がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち“朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり”の心境で日々を過ごしてきたと察しております」とつづった。

 関係者によると、大学卒業後に出版社に勤務していた文子さんは「菅原有悠」というペンネームによる著書もある文才の持ち主。夫の最期を記す際に選んだ「朝に道を…」は、「論語」里仁(りじん)篇の言葉。「大辞林」によると、「人としての道を悟ることができれば、すぐに死んでも悔いはない」という意味で、悔いなく生きた姿を伝えた。

 さらに「“落花は枝に還らず”と申しますが、小さな種をまいて去りました。一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした」と農業を実践し、一方で意見をしっかりと主張した夫の生き方を紹介した。

 1男2女の子供に恵まれたが、長男の加織さん(本名薫)は01年、東京都世田谷区の踏切で電車にはねられ死亡。家族で手を取り合って、大きな悲しみを乗り越えてきた。そして迎えた夫との別れ。文書では「すでに祖霊の一人となった今も、生者とともにあって、これら(まいた2つの種が実ること)を願い続けているだろうと思います」と続け「恩義ある方々に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫(わ)び申し上げます」との言葉で結んでいる。

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2014年12月2日のニュース