晩年は農業中心に…文太さんの人生変えた長男事故死、がん、震災

[ 2014年12月2日 05:35 ]

1995年10月、宮城米応援キャンペーンに参加した菅原文太さん。右は浅野宮城県知事(当時)

 晩年の菅原文太さんは芸能活動を控え、農業を中心とした生活を送っていた。一方、反戦、脱原発などの立場から、積極的な発言を続けた。

 01年、長男・加織さんの事故死が人生を変えた。自身も07年に膀胱がんが見つかり、生を見つめ直した。そして11年3月11日の東日本大震災後、俳優業からの引退を宣言。「人の命が粗末にされすぎてしまっている。劇映画を撮っている場合じゃない」と、出演予定作を降板。出身地の仙台市など被災地を訪れた。

 親交のあった鎌田實氏は、「今年に入ってから初めて聞くようになったのは、戦争のこと。“絶対に戦争はしちゃいけないんだ”と何度もおっしゃった」。特定秘密保護法の成立、集団的自衛権の解釈変更などに、募った強い危機感。「10月に電話で話したのが最後で、原発再稼働や沖縄の問題などを熱く語っていました」という。

 98年、「東京は息苦しい」と岐阜県清見村(現高山市)に移り住み、09年には、山梨県北杜市に農業生産法人「竜土自然農園 おひさまの里」を設立。「人間はゆっくり生きる方がいい」と、商業主義と離れたスローな生活を目的とした。その一方、耕作放棄地を再生。農政の問題に、一石を投じる意味もあった。

 農地を貸した男性は「9月に見かけた際は、“元気か?”と声をかけてくれて、普段と変わらない様子でした」。主に高原野菜の産地だが、文太さんはさまざまな野菜を育てた。収穫した唐辛子を使った「八味唐辛子」を商品化。「末広がりで縁起が良いから」と話していた。

 近所の洋菓子店「ドゥ・ミール」の店主、名取孝英さん(46)は、「店で“地域の活性化をしたい”という話をされていた」と振り返る。「一緒に農業をされていた若者には“社長”と呼ばれていた。農作業の服でも様になっていて、格好良かった」と話した。

 ▼山梨県横内正明知事 農業の担い手育成や農政全般にさまざまな助言をいただき、山梨の農業にとってまさにかけがえのない方だった。山梨の自然を深く愛し、まるで山梨で生まれ育ったかのように愛情を注いでくださった。

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