鶴岡東・土屋2発!天国の父へ「打ったよ!」 91年明徳義塾・津川以来の大会1&2号

[ 2022年8月8日 04:03 ]

第104回全国高校野球選手権第2日・1回戦   鶴岡東12―7盈進 ( 2022年8月7日    甲子園 )

<盈進・鶴岡東>2回、左越えに2点本塁打を放つ鶴岡東・土屋(撮影・後藤 大輝)
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 1回戦4試合が行われた。鶴岡東(山形)は土屋奏人(かなと=3年)が2回、大会1号となる左越え2ラン。7回にも同2号となる左越えソロを放つなど、2安打3打点をマークした。夏の甲子園で大会1、2号を同じ選手が打つのは91年以来31年ぶり。山形勢初の1試合チーム3本塁打を含む12安打12得点で、盈進(広島)を下した。また八戸学院光星(青森)、愛工大名電(愛知)、近江(滋賀)が初戦を突破した。

 土砂降りの中、傘も差さずに病室へ走ったのは、20年5月だった。父を亡くしたあの日から2年。湿気の少ない乾いた空に、土屋の放った白球が舞い上がった。4―0の2回1死三塁、大会第1号となる左越え2ラン。7回も同2号となるソロを、左翼席へ運んだ。「レフトフライかと思った」という打球は、見えない力に押されるようにグングンと伸びた。

 大会1号&2号の連発は、91年の明徳義塾・津川以来となる、同一選手による大会1&2号。「打ったよ!と言いたいです」。土屋にはどうしても伝えたい相手がいた。

 父・竜一さんは国指定の難病・筋ジストロフィーと闘いながら、音楽活動や執筆を続けたシンガー・ソングライターだった。鶴岡東に越境入学して間もない20年5月。容体が悪化した父を見舞うために故郷の長野に帰省した。病院で苦しむ父は、投与される薬の量が増えていた。帰省翌日の午後8時ごろ、不整脈により心肺停止。病院から約2キロ離れた自宅で知らせを聞き、タクシーの到着を待たず、雨の中、病院へ走った。父は55歳の若さで眠るようにこの世を去った。

 「遠くの高校に入れてもらった。父と母にちゃんと恩返しをしないといけない」。甲子園出場にかける思いは強まった。チームの軸となる右のスラッガーに成長し、3年ぶり7度目の聖地切符をつかんだ。高校通算34、35号の2発など、チームは山形県勢初の1試合3本塁打をマークし、12安打12得点で初戦突破。佐藤俊監督は「まさか2本も打つとは…」と打線を勢いづけた土屋に驚きを隠さなかった。

 一塁側アルプス席では母・美和さん(52)が、竜一さんの遺骨を携えていた。天国からでも見えるようにと、残していたのは目の周辺の骨。チーム本塁打が土屋の1本だけだった、山形大会も見守ってくれていた。美和さんは「お父さんは“よかったねえ”と言っていると思います」と空を見上げた。

 大会1号は、夏の大会の甲子園球場通算1700号のメモリアル弾でもあった。「先のことを見ずに一球ずつ集中していきたい」。悲しみを力に変える土屋の心のように、甲子園の空は晴れ渡っていた。(柳内 遼平)

 ◇土屋 奏人(つちや・かなと)2004年(平16)9月7日生まれ、長野県佐久市出身の17歳。小3から浅間スポーツ少年団で野球を始める。佐久市立浅間中では佐久シニアに所属。鶴岡東では1年秋からベンチ入り。将来の夢は野球関係の仕事に就くこと。50メートル走6秒4。遠投110メートル。1メートル74、78キロ。右投げ右打ち。

 《山形県勢初の夏1試合3発》鶴岡東の土屋が大会1、2号本塁打。山形勢の1試合2本塁打は19年習志野戦で丸山蓮(鶴岡東)が記録して以来2人目となった。同一選手の大会1、2号は91年の津川力(明徳義塾)以来31年ぶりだ。また、鶴岡東は7回に前田も本塁打。夏の1試合3本塁打以上は昨年の二松学舎大付戦での京都国際(3本)以来で山形勢では初めて。

 《NPB審判員の津川氏エール「さらに本塁打数を伸ばして」》31年前の同一選手による大会第1号、2号は明徳義塾の津川力(現NPB審判員)が放った。91年夏は馬淵史郎監督の甲子園初采配。開幕日の第3試合だった市岐阜商戦で、津川は「4番・遊撃」で出場し、初回に左越え3ラン、5回も左翼越えソロを放った。その年のドラフト4位で入団したヤクルトで8年プレーし、現在は審判員を務める。31年ぶりの記録達成を「うれしい。打ってくれたことで昔を思い出すことができます」と祝福した。当時を「甲子園はみんなの憧れの場所。あの2本は自分を成長させてくれた」と振り返り、2回戦に進出した鶴岡東・土屋に「僕は2本で終わったけど、さらに本塁打数を伸ばしてほしいですね」とエールを送った。

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2022年8月8日のニュース