探究心が宮本育てた…「自衛隊」から打撃も極みの域へ

[ 2012年5月5日 06:00 ]

<ヤ・広>2回無死一塁、中前に通算2000安打を放つヤクルト・宮本
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セ・リーグ ヤクルト8-4広島

(5月4日 神宮)
 プロでのスタートは「守備の人」だった。ヤクルトの宮本はこの日も「守備のおかげで2000本を打てた。野村監督じゃなければ使ってもらえなかった」と入団当時を振り返った。アマ時代から右打ちの技術は備わっていたが、当時の野村克也監督には「自衛隊」と呼ばれ、もっぱら守備要員。しかし、ID野球と出合い、試合に出ることで配球を読む力を養っていった。例えば、ある投手が初球に直球を投じた場合、2球目にスライダーが来る確率。試合中はベンチ裏に下がることは許されず、相手バッテリーの研究を義務付けられた。

 初めての3割到達は00年。若松勉(元ヤクルト監督)を育てたOBの中西太氏の指導で右打ち一辺倒から脱却したからだ。学んだのは内角球を引っ張る技術。バットをリードする左手が体ギリギリを通り、右手で押し込む。「それまでは内角を思い切り振ることを恐れていた」と宮本。中西氏は「30歳になってから“教えてください”とよく言ってきた。宮本は中西理論を身につけた一人」という。広角に打ち分けられるようになり、打撃の幅が広がった。

 探求心も旺盛。先輩の古田敦也氏(元ヤクルト監督)のフォームをまねることで学んだ。02年春季キャンプで宮本は目を輝かせて言った。「古田さんみたいにバットを抜く感覚。それができるようになってきた」。懐を深くし、最短距離で打つ。球を引き付けることができ、どんな球にも対処できるようになった。

 ゴールデングラブ賞9度を誇る守備の名手はいつしか打撃も極めた。37歳だった07年から3割を超えること3回。史上最年長で到達した背景には育った環境、探求心、野球センスが組み合わさっている。

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