「脇役の一流」宮本 本拠地神宮で2000安打達成

[ 2012年5月5日 06:00 ]

<ヤ・広>2回無死一塁、通算2000本安打を達成した宮本(中央)はナインから花束を贈られる

セ・リーグ ヤクルト8-4広島

(5月4日 神宮)
 超満員の神宮で決めた!ヤクルトの宮本慎也内野手(41)は4日、広島戦の2回に中前打を放ち史上40人目となる通算2000安打を達成した。41歳5カ月での到達は落合博満の41歳4カ月を上回る最年長記録。大学卒で社会人を経た選手では同じヤクルトの古田敦也に続いて2人目となった。「守備の人」から年齢を重ねるごとに打撃技術を進化させていった遅咲きの2000本打者。脇役の道を歩んできた男が大きな金字塔を打ち立てた。

 小雨が降る神宮。鋭いゴロの打球が中堅へ抜けていった。プロ18年目、1976試合目でたどり着いた通算2000安打。満員の3万3866人で埋まったスタンドから大歓声が湧き起こる中、宮本は一塁ベース上で両手を上げた。

 「ホッとしました。神宮で打てて幸せ。下が濡れていたので、投手の足元を狙ってセンター返し。基本通りできた」。

 王手をかけてから2試合目。2回無死一塁の第1打席で、1ボールから福井の137キロの外角低めの直球をはじき返した。大台に残り25本で臨んだシーズン。「10本を切ってからは普通の精神状態じゃなかった」と言うが、宮本らしい単打で決めた。ヤクルトの選手が神宮で2000安打を達成するのは初めてだ。

 会見では自分のことを何度も「脇役」と言った。1メートル76と決して体格に恵まれたわけではない。本塁打があるわけでも、足が速いわけでもない。「まあ、脇役の一流にはなれているかと思いますけど…」と笑う。通算犠打は史上3位の391。制約の多い打順を任されることが多い中で安打を積み重ねていった。「主軸の方が2000本という数字(を達成する)と思っていたから、ここ2年くらいまで意識はなかった」とかみしめた。

 「脇役」から「脇役の一流」へ――。宮本の野球人生を支えてきたのは、強烈なキャプテンシーだ。常に考える。そしてナインの手抜きを許さない。優勝争いをした昨季は緩慢プレーをした中心選手の青木(現ブルワーズ)を叱責(しっせき)したこともあった。根本にあるのは優しさだ。

 座右の銘は「球道即人道」。PL学園の部訓だ。「野球と人生。どちらかを怠ると、どちらもダメになる」。だから若手には口を酸っぱくして言う。「日常生活から目配り、気配りをしろ」。例えば、電車に乗る。人の動きを観察する。次の動作はどうかを予測する。お年寄りには席を譲る。人間力、洞察力を磨く。一手先を読むことは野球にも通じると考える。

 宮本の人間力をさらに向上させたのが、04年のアテネ五輪。どちらかというと地味なイメージだった男が主将を任され、ひのき舞台に立った。長嶋茂雄監督からの指名。推薦した高木コーチ(現DeNAヘッド)は言う。「言葉に瞬発力があった」。長嶋監督が脳梗塞で倒れ、中畑ヘッド(現DeNA監督)が指揮。宮本は指揮官不在で不安なヘッドに言った。「この苦しみを一緒に味わいましょう」。覚悟がなければ言えないセリフだ。選手には「一生懸命やって負けたらしようがないじゃ俺は絶対許さない」。国を背負って戦う姿勢。妥協はなかった。08年北京五輪でも星野監督から主将に指名された。

 日本プロ野球選手会の会長も務めた。チームのために、球界のために、常に何ができるかを考えてきた。ここ数年、「引退」の二文字を口にするようになったが、宮本の「人間力」はまだチームには必要だ。「個人記録は終わった。みんなで一致団結して日本一を目指したい」。その視線は次の目標へと向けられていた。

 ◆宮本 慎也(みやもと・しんや)1970年(昭45)11月5日、大阪府吹田市生まれの41歳。PL学園では87年夏の甲子園に2年生で唯一出場し全国制覇に貢献。同大では2年春に関西学生リーグで首位打者。社会人野球のプリンスホテルを経て、94年ドラフト2位でヤクルトに入団。01年に67犠打でシーズン最多犠打の日本記録。ゴールデングラブ賞9度(遊撃6、三塁3)、昨年ベストナインを初受賞。1メートル76、82キロ。右投げ右打ち。

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