追悼連載~「コービー激動の41年」その65 ガソルとの出会いから始まるバスケ人生の大逆襲

[ 2020年4月21日 08:14 ]

2008年にグリズリーズからレイカーズに移籍したパウ・ガソル(AP)
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 “出戻り監督”となったフィル・ジャクソンはレイカーズを2シーズン、優勝には導けなかった。2005年と06年シーズン、コービー・ブライアントが得点王となったものの、プレーオフではともに1回戦でサンズに敗れた。

 “変化”が出てきたのは2007年シーズンになってから。1996年のドラフトでブライアントと同じく1巡目(全体24番目)に指名され、選手会長にもなっていたデレク・フィッシャー(当時33歳)がウォリアーズ、ジャズを経由して4季ぶりに古巣に戻ってきた。双子の娘のうちの1人(生後11カ月)が眼球の悪性腫瘍「網膜芽細胞腫」と診断されてすでにニューヨークで手術を受けており、最先端医療が受けられる都市でのプレーを希望したために、ジャズが契約解除に同意し、ロサンゼルスを本拠にしているレイカーズが手を差し伸べる形で新たに3年契約をかわしていた。

 この年はチーム創設60シーズン目(NBAの前身BAAとは別組織、NBLでの1シーズンを含む)。記念すべき年だったこともあって補強には“気合”が入っていた。そして年が明けた2008年2月1日、レイカーズはシャキール・オニール以来となる大型トレードを成立させる。ターゲットとなったのはスペイン出身のセンター兼フォワードで、グリズリーズで7シーズン目を迎えていたパウ・ガソル(当時27歳=213センチ、113キロ)だった。

 ガソルはこのシーズン、グリズリーズで39試合に出場して18・9得点、8・8リバウンド。フィールドゴール(FG)の成功率は前年より少し下がったとは言え、それでも50・1%をマークしており、安定した数字を残せるリーグ屈指のビッグマンだった。そして商談がまとまると、グリズリーズの地元だったテネシー州メンフィスからロサンゼルスまで行ってトレード成立に必要な身体検査を受け、それが「異状なし」とされるとすぐにレイカーズの遠征先だったワシントンDCへ移動。2018年に刊行されたブライアントの自著「ザ・マンバ・メンタリティー」の序文をガソルは書いているが、その中で彼はブライアントと初めて会ったのはワシントンDCのホテルに到着した2月5日の午前1時だったと記している。ガソルがブラアントの部屋を訪問したのではなく、“相棒”の到着を心待ちしていたブライアントが眠らずに待っていたもので、すぐにガソルの部屋をノック。そこから2人の間には強い絆が生まれ、やがてそれは王座奪回というシナリオを生み出していった。

 「2008年2月に自分の人生は変わった。大きな衝撃だった。彼(ブライアント)はすでに違うレベルにいた人間でもあったし、勝つことだけを常に考えていた」

 ガソルはブライアントのすべてに驚いたという。対戦する相手を研究するために費やすビデオチェックなどの準備の時間の長さ、夕食が終わってもまたトレーニングを始める鬼のような練習姿勢。「多くの人が彼とはやりづらいと思うのかもしれないが、私にとってはベストの自分を引き出してくれる存在だった。ともに過ごした時間は計り知れない価値があった」。ブライアントとバネッサ夫人の19回目の結婚記念日となった4月18日には同夫人にバラの花束を贈って激励。それだけガソルにとって、ブライアントは「忘れえぬ人間」だったようだ。

 ブライアントも「多くの選手とともに戦ってきたけれど、パウが最も気に入ったチームメートだったといっても過言ではない。とてもインテリジェントで、僕と同様に細かいところにこだわるんだ」と語っており、ガソルの加入で反目しあっていたオニール時代とは違った主力コンビの人間関係が構築されていった。

 このシーズン、ガソル移籍前のレイカーズの勝率は・652(30勝16敗)だったが、移籍後は・750(27勝9敗)。ガソルがレイカーズの先発に初めて名を連ねたネッツ戦でブライアントはシーズン最少の6得点にとどまったが、ガソルは24得点と12リバウンド、そして“出戻り”のフィッシャーはシーズン最多の28得点をマークして105―90での勝利に貢献した。なにより大きかったのはたとえブライアントが不振であっても、それを救える選択肢がジャクソンに与えられたことだった。

 ではスペインから渡米し、ブライアントを「兄」と慕うようになったガソルはどんな人生を歩んできたのだろう。どんなスター選手にも「もしスポーツをやらなかったら何をしていただろう?」というパラレル・ワールドがあるが、ガソルにもあった。それは“医師”だった。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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