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元オランダ代表クライフ氏急死 バロンドール3度 数々の伝説残し…

[ 2016年3月25日 05:30 ]

13年8月、モナコでのUEFAチャンピオンズリーグの組み合わせ抽選会でユベントスと書かれたカードを引くクライフ氏(AP)

 オランダの巨星墜(お)つ。1960~70年代にアヤックス、バルセロナなどで活躍した元オランダ代表の伝説的な名選手、ヨハン・クライフ氏が24日、スペイン・バルセロナでがんのため死去した。68歳だった。昨年10月に肺がんであることを公表していた。84年に引退した後はアヤックス、バルセロナなどで監督を務めて一時代を築き、選手、指導者としてサッカー界に影響を与えた。

 “近代サッカーの申し子”と呼ばれたレジェンドが、この世を去った。クライフ氏の公式サイトによると、バルセロナで家族に見守られながら静かに息を引き取ったという。現役時代からヘビースモーカーだったクライフ氏は、昨年10月に肺がんであることを公表。先月13日に「闘病は前半を2―0で終えた。まだ試合は終わっていないが、私は勝利するだろう」とコメントして順調な回復を強調していただけに、急死のニュースに衝撃と悲しみが広がった。

 サッカー界に“革命”を起こした。60~70年代にアヤックスやオランダ代表で、名将ミケルス監督の下で「トータル・フットボール」を実現。攻守分業というそれまでの常識を覆す全員攻撃、全員守備の革命的な戦術の中心的存在だった。アヤックスでは欧州チャンピオンズ杯(現欧州CL)3連覇、オランダ代表では74年W杯西ドイツ(現ドイツ)大会で準優勝。決勝では“皇帝”ベッケンバウアー擁する西ドイツに敗れたが“クライフの大会”と評された。卓越した技術とスピードで「フライング・ダッチマン(空飛ぶオランダ人)」の異名を取り、ボールを軸足の後ろに通すフェイントは「クライフ・ターン」と呼ばれた。バロンドール(当時欧州最優秀選手賞)を3度獲得。99年には国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)による「20世紀欧州最優秀選手」に選出された。

 引退後は指導者としても成功。バルセロナでリーグ4連覇を達成し、92年には初の欧州制覇に導いた。同年のトヨタ杯で来日し、日本でも多くのファンから声援を受けた。また育成年代からの一貫指導システムを構築し、変幻自在のサッカーで現在まで続くバルセロナの栄光の土台を築いた。美しいサッカーを追求し「美しく敗れることを恥と思うな、ぶざまに勝つことを恥と思え」などの名言を残した。クライフ氏の哲学は現代のサッカーに息づいている。

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