中村師、幸村流で下剋上 エリートも「作戦が重要」

[ 2019年1月30日 05:30 ]

中村均調教師
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 栗東でも名伯楽4人が2月末に70歳定年を迎える。先週の美浦に続く引退調教師特集「栗東編」。憧れの武将・真田幸村に自らを重ね合わせ、戦国競馬を駆け抜けた中村均師、ナリタトップロードを通して渡辺薫彦師という後継者を育て上げた沖芳夫師、「エイシン」の赤と黒の勝負服で世界を席巻した坂口正則師、歌手から転じて名牝ビリーヴを送り出した松元茂樹師。一時代を築いた名調教師たちのラスト1カ月の戦いぶり、しっかりと目に焼き付けたい。

 父の覚之助氏は元調教師。自身は獣医師免許を持ち、JRA史上2番目に若い28歳6カ月で調教師免許を取得した。自他ともに認める競馬界のエリートコースを歩んできた中村師だが、約50年に及ぶホースマン人生の根っこにあったのは意外にも反骨心だった。「エリートコースだったけど競馬の仕方は裏街道。小さい頃からホークスファン。長嶋や王よりも野村が好きだった。自然とそういう生き方になったんだ」

 歴史をこよなく愛する。憧れの戦国武将がいる。大坂の陣で徳川家康をあと一歩まで追い詰めながら惜しくも敗れた真田幸村。その姿を自身に重ね合わせる。「家康みたいに大軍なら正攻法で戦うこともできるが、うちの厩舎は(兵力わずかな)幸村みたいなもの。だから作戦が重要だった」

 思い出深い一戦がある。開業7年目、84年オークス。管理馬トウカイローマンは桜花賞で勝ち馬ダイアナソロンから1秒2差の4着に敗退。クラシック第2戦では9番人気の低評価だったが中村師はひそかに牙を研ぎ、手応えをつかんでいた。「作戦を練りに練った。騎手には“1角を10番手以内で回って、内ぴったりを走れ。直線の坂の上をゴールと思って、1F手前で先頭に立て”と指示したんだ。見事に計算通りのレースになった。まさにしてやったり。僕の言った通りに乗る岡冨を乗せたのも正解だった」。ビートブラックが大逃げを成功させた12年の天皇賞・春もトレーナーの策がハマった一戦。戦力が劣るなら頭を使う。幸村ばりの知将だった。

 人望厚く、調教師会の役職を歴任した。04年から6年間にわたって調教師会の会長も務めた。「交渉は口の戦。相手を説得したり納得させたり…。駆け引きですよ。人として成長させてもらいました」。アイデアマンとしても知られ、坂路や調教用プールの開設に携わった。今では常識となっている調教コースのハロー掛け(整地作業)も師の提案だ。07年の馬インフルエンザの際には、すぐに競馬を再開できるよう、現場の先頭に立って尽力した。「あの時は競馬会も現場も、みんなが競馬をしたいと思っていた。一つの目標に向かって一枚岩になって頑張った」

 リーダーシップにあふれ、多くの人に愛された。その功績は永遠に色あせない。

 ◆中村 均(なかむら・ひとし)1948年(昭23)9月13日生まれ、京都府出身の70歳。麻布獣医大(現麻布大)卒業後、父(覚之助)の厩舎の厩務員に。77年調教師免許取得。78年7月8日、中京競馬のアイチハヤオー(2着)で初出走。同年9月10日、阪神競馬のエスティキング(延べ6頭目)で初勝利。JRA通算9132戦719勝。同重賞31勝(29日現在)。

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