小西良太郎氏 なかにし礼さん追悼 良風美俗に一服の毒を盛った「亡郷の異邦人」

[ 2020年12月27日 05:30 ]

なかにし礼さん
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 作詞家で直木賞作家のなかにし礼さんが82歳で他界したことをスポニチ本紙が報じてから一夜明けた26日。半世紀以上にわたる親交があった本紙OBで音楽評論家の小西良太郎氏(84)が追悼文を寄稿。「対極のライバル」だった阿久悠さん(07年死去、享年70)との秘話も交え、「亡郷の異邦人」の壮絶な生きざまをしのんだ。

 日本を代表する作家、作詞家だったが、その内面は「亡郷の異邦人」だった。理由は彼の敗戦体験にある。

 旧満州で生まれ、ハルビンで育った。良家の子息として過ごした夢のような日々、1945年(昭20)に日本の敗戦で暗転する。翌年9月に引き揚げ船に乗るまでの逃避行1年3カ月、彼はむごたらしい父の死をはじめ、多くの無残の死を目撃。人間の絶望や背信、狂乱を体験、人々の心の呻吟(しんぎん)を聞いた。小学校1年生でかかえたそんな甘美と辛酸の記憶が、終生、彼の仕事に影を落としていた。

 高校時代に傾倒したのはクラシック音楽、大学で卒論に選んだのがレイモン・ラディゲ、シャンソン喫茶「銀巴里」に入りびたり、芦野宏、深緑夏代、金子由香利らのためにアルバイトで訳詞したシャンソンが月々十何曲。それら体験がフランスの香りがきわだつ彼の詩世界を形づくった。脚光を浴びたのは1960年代後半からのグループサウンズ・ブームが背景。日本のポップス成熟の流れを主導し、年間シングル売り上げ1500万枚、年間ベスト100曲のうち28曲を占める(1970年)時代の寵児(ちょうじ)にのし上がっている。

 歌づくりの意味を本人に質問したら「世の良風美俗に一服の毒を盛るのさ」とうそぶいた。同じ時代を「怪物」と呼ばれて並走したヒットメーカー阿久悠に同じ質問をすると「狂気の伝達ですか!」と即答した。

 不埒(ふらち)な言動で耽美(たんび)、退廃の詩世界を構築したなかにし。同じ少年時代に淡路島から東京、その先の外国を望見、夢みた阿久は、狂気と呼ぶほどの情熱をストイックなまでに歌世界に注入して、二人は「正対」していた。

 なかにしとの付き合いは菅原洋一「知りたくないの」、阿久とは北原ミレイ「ざんげの値打ちもない」からだが、作品発表ほやほやの無名の時期。心やすく食事をし酒を飲み、相談があれば喜んで乗り、長く“普段着”の親交を重ねた。

 閉口したのはライバル意識。「そんなものはない」と断言しながら、パーティーなどの2人は人混みの両極に陣取る。仕方がないから中央へ合流を促し、しばらく3人で雑談、ちょっと席を外すと2人はもう離ればなれである。そのくせちらちらとこちらの動きを目で追っている。まるで少年みたいだが男のジェラシーほど厄介なものはなかった。

 「私が書いた歌はすべて昭和へのいとしさであり、恨みと憎しみだった」と語ったなかにし礼は、亡郷の民、根無し草、母国にありながらもかすかな外国人として“デラシネの恋歌”を書き続け、波乱の生涯を閉じた。明らかに大きな、一つの時代が終わった。(スポニチOB、音楽評論家)

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