【平野謙 我が道1】山あれば、谷もあったが…古希を迎えても野球にどっぷり

[ 2025年10月1日 07:00 ]

最後の家族旅行、伊豆大島で両親とのスリーショット
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 今年の6月20日に古希を迎えた。1955年(昭30)名古屋市中村区道下町に生まれて70年。こんなに長く生きられるとは思わなかった。両親をともに早く亡くしているからだ。

 「平野金物店」を営んでいた父・政市(まさいち)が42年の短い生涯を閉じたのは、幼稚園に通う6歳の時だった。酒もタバコもやらないのに肝硬変。最期を悟っていたのかな。家族旅行で伊豆の大島へ行き、帰ってきて入院。症状は悪化の一途をたどり、61年12月16日、手術中に帰らぬ人となった。

 優しい父で、叱られた記憶は全くない。4歳か5歳の時だった。小型オートバイのスーパーカブで庄内川の堤防まで行ってバッタ捕りをしたのを覚えている。カブの後ろに父が編んだ竹籠を乗せ、それが僕のチャイルドシートになった。

 父亡き後は、母・志き枝(しきえ)が女手一つで金物店を切り盛りし、6歳上の姉・洋子と僕を育ててくれた。父が亡くなるまで一緒に暮らしていた父方の祖父母が家を出て行った際には、まとまった金を借りて渡したという。店と子供2人、おまけに借金を抱えての生活。相当なストレスがあったのだろう。僕が6年生になる時に体調を崩した。胃がんだった。

 母子家庭の大黒柱が入院。京都・奈良への修学旅行を諦めようとしたら、母は「記念だから行っておいで」と言ってくれた。その後、退院。子供心に「治ったんだ」と喜んだが、最後に一度…の帰宅だった。67年5月7日、母は父の元へ旅立った。

 父が42歳なら母は43歳。いつしか自分もそのくらいでお迎えが来るんだろうなと感じるようになっていた。

 ところが、思いがけずプロ野球選手になるという幸運に恵まれた僕は中日、西武、ロッテの3球団で41歳までプレー。96年に引退してそのままロッテのコーチになり、99年に2軍監督、2002年には1軍ヘッドコーチを仰せつかった。ユニホームを着続けているうちに両親の年を超えていた。

 その後も評論家生活を挟んで、いろんな形で野球に携わってきた。社会人の住金鹿島(現日本製鉄鹿島)、日本ハム、韓国プロ野球の起亜、中日でコーチを務め、独立リーグのBCリーグ、群馬ダイヤモンドペガサスでは監督もやらせてもらった。70歳になった今も静岡県島田市のクラブチーム、山岸ロジスターズの監督として都市対抗出場を目指している。

 幼い頃、父とキャッチボールをしたことはない。地元で絶対的な人気を誇る中日ドラゴンズの試合を見たこともなかった。そんな自分が古希を迎えた今も野球にどっぷり漬かっている。

 山あれば、谷もあった野球人生。振り返れば、たくさんの人に助けられてきた。誰一人欠けても、今の平野謙はなかったと思う。お世話になった皆さんに感謝の気持ちを込めて、我が道をたどっていきたい。

 ◇平野 謙(ひらの・けん)1955年(昭30)6月20日生まれ、名古屋市出身の70歳。名古屋商大から77年ドラフト外で中日入団。88年に西武、94年にロッテ移籍。右投げ両打ち。俊足強肩の外野手として活躍する。ゴールデングラブ賞9回。盗塁王1回。歴代2位の通算451犠打。引退後はロッテ、日本ハム、中日、社会人、独立リーグなどで指導を続ける。現在はクラブチーム、山岸ロジスターズ監督。

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