【あの甲子園球児は今(5)池田・江上光治】アマ球界の王道歩み、クラブチーム監督として理論注入

[ 2022年8月9日 08:00 ]

82年、第64回全国高校野球選手権準々決勝の早実戦で荒木から先制2ランを放つ池田・江上
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 やまびこ打線の系譜は、大阪の地で受け継がれようとしている。池田、早大を経て現在は日本生命の北大阪支社法人職域部長として活躍する江上光治氏は、今春から社会人野球のクラブチーム・八尾ベースボールクラブ(BC)の監督を務めている。

 「もちろん、勝ちにいきますし、勝つ喜びを味わわせてあげたい。そんな思いが募れば募るほど、成長を期待して、厳しく指導してしまうのですが、そこはコーチがフォローしてくれています」

 友人の紹介でクラブの代表兼総監督を務める河島博氏と出会い、昨年1月10日からコーチとして指導するようになった。打撃だけでなく守備、走塁、戦術も含めた野手全般を担当。「駆け引きの一つ一つに意味がある。目に見えないところを教えてあげたい」。アマチュア球界の王道を歩むことで手にした野球理論を、惜しみなく注入している。

 八尾BCでは、自身と同じ左打者から手探りで指導を始めた。88年に入社した日本生命では選手、マネジャー、コーチとして12年間にわたりアマ球界最高峰のステージを経験。同社の野球部で学んだ「体のメカニズムを知り、どう技術につなげていくか」という見地から、身ぶり手ぶりの指導を続けた。多忙な社業の合間を縫って、週末の2日間は選手たちと過ごす時間に没頭。LINEを駆使するなどコミュニケーションを密にはかってきたかいもあって、左打者の多くが著しい成長を遂げた。

 「いずれは池田のおおらかで、伸びやかで、豪快な野球をやりたい思いはあります。でも、段階を踏んでいかないとダメ。いまは日生(日本生命)のきめ細かいスタイルが必要だと思っています」

 池田では2年夏から3季連続で甲子園に出場。今もその豪快な打撃は、高校野球ファンの脳裏に深く刻まれている。

 「1、2打席目は足の震えがとまらず、あり得ないぐらいにガクガクと。恥ずかしかった」と振り返る1982年夏の1回戦・静岡戦。3打席目で放った左中間への三塁打が、全ての始まりだった。準々決勝の早実戦では荒木大輔から初回に決勝の先制右越え2ラン。全6試合で3番を務め25打数10安打の打率・400、5打点、1本塁打の活躍で、初の全国制覇に貢献した。

 主将の肩書が加わった翌83年選抜も打率・500でチームを夏春連覇へと導いた。史上初の3連覇を狙った同年夏こそ準決勝で敗れたが、3大会の全16試合で25安打、1本塁打、7打点。華々しい成績で彩られ「自分をより成長させてくれるところ」と称した聖地から、江上氏は何を学んだのだろうか。

 「油断大敵ということを教えてもらえた。何があっても勝負事は最後まで油断があってはいけない、と」

 0―7で零敗を喫した83年夏の準決勝・PL学園戦。水野雄仁との連打で築いた初回2死一、三塁で、続く吉田衡の痛烈なゴロは投手・桑田真澄の好フィールディングに阻まれた。ファンの間で「あれが抜けていれば展開は変わった…」と言われるシーン。ただ、江上氏の見解はやや異なっている。

 「僕と水野が連打して、吉田は良い当たりのピッチャーゴロ。無得点だったとはいえ、あの初回の攻撃で“何点でも取れるやろ”という雰囲気になってしまった。吉田の打球うんぬんではなくて、初回、普通にヒットが出たことで油断を生んでしまった。逆に3者凡退であれば気を引き締めて、また違う結果になったのではないかと思います」

 池田が3連覇を逃して以降、いまだ達成したチームはない。あの夏から39年。江上氏が今なお教訓とする初回の攻防は、高校球史における大きな分岐点でもあった。(森田 尚忠)

 ◇江上 光治(えがみ・みつはる)1965年(昭40)4月3日生まれ、徳島県出身の57歳。池田では1年夏から背番号16でベンチ入りし甲子園は2年夏から3季連続出場。2年夏は「3番左翼」で甲子園初優勝に貢献し主将となった3年春も優勝し同年夏は準決勝でPL学園に敗れた。早大でも主将を務め社会人野球の日本生命では選手、マネジャーとして活躍。21年から八尾BCのコーチとなり22年から監督を務める。

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