「赤ヘル旋風」広島黄金期築いた名将 古葉竹識さん 85歳で死去

[ 2021年11月17日 05:30 ]

古葉竹識さん
Photo By スポニチ

 かつて広島の監督として4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いた古葉竹識(こば・たけし)さんが12日に死去していたことが16日、分かった。長男が広島球団を通じて発表した。85歳。熊本県出身。死因は明らかにしておらず、葬儀・告別式は近親者で行った。75年に球団創設26年目で初のリーグ優勝を飾るなど「赤ヘル旋風」を巻き起こし、黄金時代を築いた名将だった。 

 情と厳しさ。二つを併せ持つ指揮官が静かにこの世を去った。広島の松田元オーナーは「最近、元気がないと聞いて心配していた。当たりは柔らかい人だが、負けず嫌いだった。非常に残念に思う」としのんだ。

 広島の黄金時代「赤ヘル旋風」は、古葉さんがシーズン途中から指揮を執った75年からだった。当時39歳の青年監督は、自ら三塁コーチスボックスに立ち采配を振った。リーグ最多の124盗塁。古葉さん自身も現役時代に2度盗塁王になっており、機動力を押し出した野球で初のリーグ優勝に導いた。その後も79、80、84年にリーグ優勝し、初の日本一は79年。語り草になっているのが、近鉄との日本シリーズ第7戦での「江夏の21球」だ。1点リードの9回無死満塁。マウンドの江夏の目に入るように北別府、池谷に投球練習を始めさせた。妥協を許さない用兵を示した一方、プライドを傷つけられた江夏は発奮。21球で無失点で抑えた。日本一には計3度輝き、広島の街は沸き返った。

 熊本出身。実家は鋳物工場を経営も、済々黌(せいせいこう)時代に51歳だった父・一二(いちじ)さんが白血病で死去。工場も自宅も手放し、貧しい暮らしを強いられた。「母を楽にしてあげたい」とプロ入りを目指して特待生で専大進学も、1年秋に中退。後に中日監督などを務める濃人(のうにん)渉監督率いる社会人の日鉄二瀬で、給料を仕送りしながらプレーした。

 広島では同じ58年にプロ入りした巨人・長嶋(現終身名誉監督)と63年に首位打者争いを展開。だが、10月12日の試合で顔面死球で顎を骨折し入院した。打率・339で2位に終わり、長嶋氏から「キミノキモチヨクワカル イチニチモハヤイカイフクヲイノル」という電報が届いた。75年の監督就任も長嶋氏と同じ。生涯のライバル関係だった。

 87~89年は大洋(現DeNA)で指揮を執った。ベンチでは端から体を半分出すような位置で戦況を見つめ、その姿を漫画に描かれるなどファンにも愛された。座右の銘は「耐えて勝つ」。厳しさと優しさと、一時代を築いた名将だった。

 ◆古葉 竹識(こば・たけし、本名古葉毅)。1936年(昭11)4月22日生まれ、熊本県出身。済々黌から専大(中退)、社会人の日鉄二瀬を経て58年に広島入り。俊足強肩の遊撃手として活躍し盗塁王2度。70年に南海(現ソフトバンク)へ移籍し71年引退。通算1501試合、打率・252、44本塁打、334打点、263盗塁。南海、広島でコーチを務め、75年5月に広島監督に就任。87年から3年間、大洋(現DeNA)監督を務めた。99年、競技者表彰で野球殿堂入り。03年に広島市長選、04年は参院選比例代表に自民党公認で出馬し、ともに落選した。08年から東京国際大監督、退任後は少年軟式野球国際交流協会理事長、全日本大学軟式野球連盟名誉会長などを務めた。

 ▼ソフトバンク王貞治球団会長 巨人V9のあとの赤ヘル旋風は見事でした。アマチュア野球でも頑張っていただき、野球一筋の素晴らしい人生だったのではないでしょうか。同世代を生きたものとして誇りに思います。

 ▼巨人長嶋茂雄終身名誉監督 古葉さんと私は同じ年にプロ入りし、同じ時期に監督を務めました。選手時代は首位打者を争ったライバルで監督時代も本当に手ごわいライバルでした。古葉さんは全盛期の赤ヘル軍団を率い、冷静な中にも目の奥には熱い闘志を感じました。良きライバルとして、お互い切磋琢磨(せっさたくま)してきたと思います。ご冥福をお祈りいたします。

続きを表示

この記事のフォト

2021年11月17日のニュース