野球界の3・11、これからも伝え続けたい

[ 2021年3月15日 14:00 ]

2016年、福島県の楢葉町で野球教室を行った内川聖一内野手(中央)
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 【君島圭介のスポーツと人間】岩手・陸前高田の小さなグラウンドで、子どもたちはもじもじしていた。東北っ子らしいな、と眺めていると突然元気な声が響いた。「よ~し、やるぞ!ちゃんと並べ」。日本ハムの杉谷の声だった。

 東日本大震災復興支援の目的で開催された野球教室。参加選手は2軍の若手中心だったが、プロ野球のユニホーム姿に圧倒されていた被災地の子どもたちが、杉谷の明るさに心を溶かしていく姿はほほえましかった。

 東京電力の原発事故の恐怖が色濃い13年の夏、福島・川内村で盆野球が行われた。終戦3年後から毎夏お盆に村が行ってきた野球大会だ。イニング数も勝敗も関係ない。誰でも飛び入り参加できる。震災の年も場所を避難者の多い郡山市に移して続けた。

 その年、盆野球は川内村に帰ってきた。特別参戦した山本浩二氏や吉村禎章氏らが何度も代打に登場する姿に驚嘆や笑い声が絶えなかった。

 16年の冬、当時ソフトバンクの内川は、宮城県出身の上林を連れて原発から20キロほどの距離にある福島・楢葉町を訪れていた。「気持ちが通じ合わないと、俺がここに来た意味がないよな」と、参加した255人の子どもたち全員と何時間もかけて心のこもったキャッチボールを行う姿に思わず涙した。

 18年の2月、楽天の新人選手たちが宮城・名取市の閖上(ゆりあげ)地区で慰霊碑に手を合わせた。誕生日に母と妹を津波で亡くした小学生の作文が代読されると、ドラフト1位で入団した近藤は「作文の子は僕と同学年なんです」と絶句した。

 それらを取材に行く途中、カーナビの示す道は消えていた。太平洋沿岸部で、3階までがれきに覆われた廃墟ビルをカーナビが小学校と表示したときは血の気が引いた。取材先で「子どもたちの笑い声はいいですね」と声をかけた相手から相槌が返ってこなかったときは、あの日何が起きたのか想像し、思いやれなかった自分が情けなかった。

 私自身、東北の出身で親や沿岸部に住む親族が被災した。関東に住んでいた自分は当事者ではない。震災を語るとき、常にその後ろめたさを感じていた。何を発信しようと自分はそこにいなかった。うわべだけなのではないか。

 ただ、こうして野球記者として東北の復興に尽力している野球選手を取材し、伝えることが出来る。10年を振り返ってそう思う。そして、ここが区切りでも何でもない。3・11から始まったのは東北の復興ではなく、人と人、地域と地域の絆を見直しながら進める日本の発展なのだと強く感じる。(専門委員) 

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2021年3月15日のニュース