【藤川球児物語(36)】10年後に明かした思い 矢野の引退試合で貫いた男の信念

[ 2020年12月19日 10:00 ]

2010年9月30日、横浜・村田に逆転3ランを浴び、ぼう然と打球を見送る藤川球児
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 藤川球児が引退後、初めて明かした事実がある。3ランを打たれて、最後の出場機会が消えた10年9月30日の矢野燿大の引退試合の舞台裏だった。

 「あのときは9回頭から矢野さんとのバッテリーで行く予定だった。だから登場曲も矢野さんのものにしたんです…。10年間、黙っていたけど」

 優勝へのマジックナンバーは2位ながら阪神に点灯していた。リードは2点。負ければ自力優勝の可能性も消滅する。引退試合どころではないという雰囲気もあったことは否定できない。だが、藤川の考え方は違っていた。

 「勝敗と同じくらい矢野さんの最後の試合は大事で重い。優勝を争うことも大事だけど、その人の野球人生の中でも重要なゲーム。周りから批判もありましたけど、大事な人のために自分の心と勝負をしたんです」

 翌年、矢野との本紙の新春対談で思いを打ち明けた。「いろいろなことが引退試合ではあった」「その姿勢はあかんやろ、という人もいた」という発言から、内部の混乱の中で、矢野がマスクをかぶるタイミングが直前で変わり、連続四球から一発を許した藤川の心理状態もうかがえる。

 だが、打たれたことは後悔しても、世話になった先輩の引退試合を大事にしようとしたことに、藤川は後悔していない。勝った、負けたより、もっと大事なことがある。それが男としての信念。いろんなものを背負いながら、その一点はずっと貫く。覚悟を常に抱えていた野球人生が凝縮されていたのだ。

 迎えた11年のシーズン。開幕前の3月11日に東日本大震災で多くの人が被災した。震災のニュースに「凄くつらい」と言葉を失った。と同時にすぐに動いた。選手と話し合い、球団にも協力を求め、募金活動を開始した。初日は3月18日、募金箱を抱え、藤川ら選手は梅田に立った。

 「東北には今いけないけど、ここでもできることがある。復興まで時間がかかる。活動も今日がスタート。風化させないように継続していく」と募金活動、義援金口座開設などを進めた。呼びかけた活動はシーズン中も続いた。=敬称略=

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