【内田雅也が行く 猛虎の地】「仏のゴロー」の明日への「酒」 古き良き時代のヒーロー

[ 2020年12月19日 11:00 ]

(18)スナック「ゴロー」

テレビのトーク番組収録で遠井吾郎氏(左)の経営するスナック「ゴロー」を訪れた江夏豊氏とジーン・バッキー氏(1999年7月7日)
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 酒豪で知られた遠井吾郎には数々の伝説が残っている。とにかく毎晩飲んだ。朝まで飲んだ。

 田淵幸一も川藤幸三もよく連れられた。2人が言うには「飲んだら次の日は打てよ」が口癖だった。「明日打つのか?」と問われ「打ちます」と答えると「じゃあ、行こう」。一方「打てるかどうか分かりません」だと「帰れ」だった。

 田淵は「明日また誘ってもらえるようにと励みになった」、川藤は「明日への酒だった」と言う。翌日、球場で黙々とランニングする姿があった。汗をかき、酒を抜いているのだった。

 「あと5分」が1時間に、「もう1軒」が続いて朝になった。門限など関係なしである。

 語り草の事件がある。村山実が投手兼任で監督2年目と言うから1971(昭和46)年だ。岡山でのオープン戦前夜だから3月15日、いや日付は16日になっていた。

 田淵によると、遠井、山尾孝雄、藤田平の4人で食事し羽目を外した。門限の夜10時はとうに過ぎ、真夜中に旅館に帰ると、4人分の荷物が玄関に置いてあった。

 マネジャーに指示された監督の部屋に出向くと、村山は「おまえら、帰れ!」と相当なけんまくだった。田淵らは平謝りだったが、遠井は「はい、はい」と本当に帰ってしまった。夜行列車に乗ったらしい。マスコミには「歯の治療で帰った」とごまかした。

 当時の新聞を見ると、遠井は翌17日は5番で3安打していた。飲んだ後は打つ。さすがである。

 藤本勝巳との一塁併用で62年の優勝に貢献した。2度目優勝の64年は4番。日本シリーズでも全試合で4番を務めた。66年には長嶋茂雄と首位打者争いを演じた。

 やさしく穏やかな性格で「仏のゴロー」と誰からも愛された。太った体で、江夏豊、田淵とともに「阪神相撲部屋」と呼ばれた。

 引退後、大阪・北新地に開いたのがスナック「ゴロー」だった。愛する酒と暮らす日々だった。後に故郷・柳井に帰り、同名の店を続けた。現役時代同様、酒の向こうに「明日」をみていたのかもしれない。

 05年6月27日、肺がんで逝った。65歳だった。田淵は著書『タテジマ』(世界文化社)で<本当の仏様になった>と別れを惜しんだ。

 柳井高野球部先輩の本紙元常務・田中二郎は鎮魂の原稿で<ユニホームを忘れ、他人のユニホームで試合に出たこともあった。朝まで深酒し、バスが出発したこともあった>と懐かしんだ。<管理野球の現代ではまず絶対に現れないであろう、得難いヒーローであった>。=敬称略=(編集委員)

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