【内田雅也が行く 猛虎の地】海に沈んだ東洋一の遊園地 「楽園」を目指した甲子園

[ 2020年12月14日 11:00 ]

(番外編)初代甲子園パーク

浜甲子園阪神パーク・阪神水族館全景図
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 甲子園球場から甲子園筋を南へ、突き当たった海岸が甲子園浜だ。引き潮になると、まるで古代の遺跡のような人工の構造物が姿を見せる。

 今回は新聞休刊日の番外編として、この海に沈んだ遊園地を書いてみたい。タイガースと直接関係ないが、親会社・阪神電鉄が開発した甲子園一帯の歴史の遺物である。

 遺跡に見えたのは阪神パークの遺構だ。甲子園球場近く、今のららぽーと甲子園の場所にあった阪神パークは戦後にできた2代目。初代は浜甲子園阪神パークとして、この海岸沿いにあった。

 昭和天皇の即位を記念して、1928(昭和3)年、甲子園筋一帯で「御大典記念阪神大博覧会」が開かれた。この時建てた大汐湯(浴場)と余興館(演芸場)を基に翌年「甲子園娯楽場」を開設した。動物園や遊技設備を増強して32年「阪神パーク」と改称した。

 事業課長だった前田純一氏は社史『輸送奉仕の五十年』で<コニーアイランド式のダイナミックな行き方><生きた動物園、動く遊園地>を目指したと記している。

 遊具はバターフライ、メリーゴーラウンド、飛行塔、電気自動車……など最新鋭のものを製作した。当時のポスターでは「御子達の楽園」「オコサマは阪神パークがおすき」とうたっている。

 動物園は当時一般的だったオリに入れて見せる展示形式ではなく、放し飼いにして「動き」を見せた。池の中に猿山を作ったお猿島、坂を上る習性を利用したヤギの峰、ペンギンは南アフリカから取り寄せた。ゾウ、ライオン、チンパンジーには芸を教え、サーカス団を編成した。

 併設した水族館は巨大水槽を覆うため、ベルギー製の特殊ガラスを取り寄せた。甲子園浜の海水はイオン濃度が悪く、水族館専用の「阪神丸」で紀淡海峡からくんで運んだ。この機帆船で各地から魚を運び、沖縄からも熱帯の魚を集め、サンゴ礁も再現した。

 36年には和歌山・太地からゴンドウクジラの生け捕り輸送。クジラ池に8頭が泳いだ。前代未聞の飼育成功だった。「ますます元気 モリモリ いかを食べてます」と新聞広告を出すと、九州の動物園から「モリモリイカとはいかなる種類か」と問い合わせが来たという笑い話がある。「東洋一」いや「世界一」と呼び声も高かった。

 また甲子園浜の海水浴場には「プレヨグラフ」と呼ばれる野球速報板が設けられた。野球場を模した掲示板で、ボールや走者の動きを再現した。投球がカーブならボールの軌道を曲げた。電話で試合状況を聞き、人力で動かす「1球速報」である。人気が沸騰していた中等野球(今の高校野球)甲子園大会の速報は人気を呼んだ。

(戦争で43年春に閉鎖/) だが時代は戦争へと進み、43年春、飛行場を造るため海軍に接収されて閉鎖となった。戦後にできた堤防が園内を横切り、約3分の1が海に沈むことになった。干潮で姿を現すのは、遊園地の一部というわけだ。

 遺構は、海を眺める展望台の基礎部分や花壇の跡、浴場の湯口エンブレムとみられるライオン像などが散在している。

 甲子園にほど近い武庫川女子大の丸山健夫教授(65)は「埋もれていた地元の歴史を掘り起こしたい」と調査を続け、小冊子『ジモレキ・マガジン』やYouTubeチャンネル『まちたびにしのみや・ものしり博士の歴史旅』などで紹介している。

 「海に沈む遊園地」で昭和初期へ思いをはせ、「当時の鳴尾村はスポーツやレジャーでにぎわった。輝く歴史を知ってもらいたい」と話した。 (編集委員)

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