【内田雅也の猛虎監督列伝(27)~第27代 吉田義男】異例3度目就任「ムッシュ」が見せた涙と笑い

[ 2020年5月17日 08:00 ]

97年5月1日、巨人戦でウインドブレーカーを腰に巻いて抗議する吉田監督(右)と、その姿に笑いをこらえる渡田球審(中央)と友寄塁審
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 1996年10月3日付の本紙<新監督 吉田義男氏に要請へ>は特ダネだった。他紙は共同通信やNHKを含め<安藤統男>が並んでいた。情報源は書けないが、2日夜に確かな裏が取れた。

 安藤や一枝修平の名もあがったが、最終決定する2日の緊急役員会で決まったのはオーナー・久万俊二郎以下「三好球団社長に一任」だった。

 この年は従来オーナー専決事項だった監督人選に「新しいやり方」(球団社長・三好一彦)と合議制を採用。久万も「私一人で監督を決めはしない。全員が納得いく結論を出す」と認めていた。

 球団が水面下で進めていたのが大リーグで初めてア・ナ両リーグで優勝監督となった名将、スパーキー・アンダーソン(当時62歳)招請で、7月就任の球団常務・野崎勝義の提案だった。野崎によると、意味が分からぬよう頭文字「S/A」と記したファイルに「9・13 打診開始」とあった。藤田平解任を終えた9月13日だ。自伝『スパーキー!』(91年・NTT出版)の共著者ダン・イーウォルドを通じ交渉に入った。「9・28 条件提示。年俸130万ドル」「9・29 ヘッドに和田博実」……最終回答日の10月1日、夫人の反対で辞退してきたという。

 野崎は「本気だった」と言うが、辞退前提のダミーではなかったか。

 イーウォルドがアンダーソン他界後の2013年に出した『スパーキー・アンド・ミー』(トーマス・デューン・ブックス)に阪神からの<意外な電話>と監督要請の下りがある。<3日間続けて朝昼夜と考え続けた>とあり、言語などの障害を並べたうえ、<彼は私にオファーへの感謝と断りの電話を入れるように伝えた>とある。

 3日間で辞退しているわけだ。すでに破談の件を用いた監督・吉田実現への周到な手順ではないだろうか。

 ともかく一任を受けた三好は2日深夜、盟友の吉田に電話、3日早朝5時半に密会し「君しかいないんだ」と要請した。吉田は4日に予定通り渡仏し、旅先パリで受諾を決意した。反対する妻・篤子に「やらない」と話していたが<翻意したのはフランスチームのメンバーの顔を見たときだった>と著書『阪神タイガース』(新潮選書)にある。89年から指導を続け成長してきた教え子たちの「初心」に「やってみるか」と血が騒いだ。

 「地獄」の87年退団から9年、前例のない3度目の監督就任だった。背番号は過去の「1」「81」ではなく「とがっていない丸い番号で」と「83」を選んだ。8年間のフランス生活で丸く、妻は「心が広くなった」。63歳になっていた。孫の世代の番記者から「ムッシュ」の愛称がついた。

 吉田は精力的だった。11月5日、西武からFA宣言した清原和博に「タテジマをヨコジマにしてでも」と熱意を示した。

 97年のキャンプで会った新庄剛志には「茶髪くらいで満足してるな。モヒカンにピアスとか、もっとやれ」と挑発して暴れん坊を期待した。

 開幕2戦目、4月6日の広島市民球場で初勝利。一塁手の八木裕からウイニングボールを受け取ると、番記者に囲まれたまま感激で涙を流した。

 熱く燃える心は健在だった。5月1日の東京ドームでは着ていたウインドブレーカーを腰に巻きつけ、審判団に抗議した。17日には審判マイク・ディミュロへの抗議でプロ24年目で初の退場処分を受けた。

 レッドソックスを退団した大物外国人マイク・グリーンウェルはキャンプ中に帰国し、4月30日に再来日。5月3日に先制打に適時三塁打と派手なデビューを飾った。だが後に自打球を当てて右足首を骨折すると「神のお告げ」だと引退してしまった。吉田も「竜巻のようでしたな」と笑い話にするしかなかった。

 桧山進次郎を4番で辛抱強く使い続けるなど育成にも腐心した。5月までは5割前後で踏ん張ったが、次第に後退していった。3年ぶりの最下位脱出での5位は精いっぱいだったろう。

 オフには中日と大豊泰昭、矢野輝弘(燿大=現阪神監督)―久慈照嘉、関川浩一のトレードをまとめた。

 98年4月1日、日本外国特派員協会のエープリルフール企画の「阪神優勝」架空記者会見に呼ばれ、吉田は「穴があったら入りたい」と言って笑わせた。

 獲得した矢野を4月15日から先発で起用し、正捕手となった。しかし、戦力不足は明らかで6月の6連敗で最下位転落。7月は4連敗に7連敗。8月は球団ワースト記録更新の12連敗を喫した。村山実死去(8月22日)の悲報が伝わった23日、今岡誠のサヨナラ弾で勝ち、吉田は「今の成績で申し訳ない。遺志を継ぐのが役割」と話した。

 すでに球団・本社は後任監督の選定に動きだしていた。だが9月30日、三好は「私は監督問題で指示を受けていません」と口にした。10月7日、球団臨時株主総会・取締役会が召集され、三好は不成績の責任から辞任となった。三好から聞いた吉田は「不本意だ。私も退団する」と不満を示したが最後まで全うした。

 12日の最終戦。吉田は妻・篤子が炊いた赤飯に送られ、甲子園入りした。試合は監督通算484勝目で飾った。花束が贈られた。「負けたのは悔しいが、人生に負けたわけじゃありません」。過去2度とも石もて追われた吉田が望んだ「円満退団」だった。新球団社長・高田順弘と握手し「負の遺産ばかりですが」と笑った。

 三好、吉田の退団で一つの時代が終わろうしていた。=敬称略=(編集委員)

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