【タテジマへの道】陽川尚将編<上>すべての始まり「野球やらない?」

[ 2020年5月11日 15:00 ]

1年生ながら07年夏の甲子園を1打席経験している陽川

 スポニチ阪神担当は長年、その秋にドラフト指名されたルーキーたちの生い立ちを振り返る新人連載を執筆してきた。今、甲子園で躍動する若虎たちは、どのような道を歩んでタテジマに袖を通したのか。新型コロナウイルス感染拡大の影響で自宅で過ごす時間が増えたファンへ向けてスポニチ虎報では、過去に掲載した数々の連載を「タテジマへの道」と題して復刻配信。第15回は13年ドラフトで3位指名された陽川尚将編。今日は(上)を配信する。 

 紛れもなくスター候補生だ。大阪出身の長距離砲、打てて守れる三塁手。こんな選手を待っていた。09年、巨人の育成ドラフト3位指名を拒否し、東農大に進学。確固たる自信と実力をつけ、プロの荒波に挑戦する。紆余(うよ)曲折を経て、尚将の新たなる戦いが始まる。

 小学2年の時、仲の良かった友達から突然声をかけられた。「野球やらない?」。1年生のときは別の小学校だった尚将。転校先の関目東小で、多くの新しい友人とともに野球と出合った。最初のポジションは捕手。同年の途中から外野も経験するなど、無我夢中になって、毎日、日が暮れるまで白球を追った。だが―。

 「いやぁ…厳しかったですね(笑い)」

 当時の浜口監督は知る人ぞ知る鬼監督。上級生の試合にも起用されていた尚将は、幾度となく厳しく接しられた。徹底的に野球の基礎を叩き込まれ、5年生から三塁へ。このとき、ホットコーナーのおもしろさを知る。

 卒団した後は早速硬式球を握り、ボーイズ入団に備えた。菫(すみれ)中に入学し、関目東ライオンズ時代の友人とともに都島ボーイズ入り。OBには平田(現中日)や浅村(現西武)ら、プロで名をとどろかしている強打者の面々がいた。特に浅村は1歳上。間近でそのズバ抜けた技術を目の当たりにする。

 「浅村さんは二塁で、本当にうまかった。僕は1歳下だし、全体練習も土日だけ。仲良く話す機会はなかったですが、見て技術を盗みました」
 重くて投げにくかった硬式球にも徐々に慣れ、尚将が頭角を現すのに時間はかからなかった。しかし一番思い出に残っているのは意外にも「マラソン大会です」と笑う。

 「桜宮高校裏の練習場を出発して、毛馬水門を経由、鳥飼大橋を渡ってまた折り返して…という道のり。キツイです…」

 20キロ弱に渡る距離を3学年計60人ほどで一斉に走る。上位入賞者には豪華景品も出る本格的なマラソン大会だが「僕はずっと後ろの方でしたよ」とポロリ。野球の技術はもちろん、仲間との深い友情をはぐくみ、金光大阪への進学を決意する。多くの高校から誘いを受けながら「都島ボーイズの先輩も行っていたし、同期生も4人ほど行くというので」。迷いはなかった。聖地を目指し、次の舞台へと歩を進めた。

 「やっぱり投手の球の速さ、キレ、すべてが違いました」

 1年夏から背番号15をつけてベンチ入りし、07年夏の甲子園も1打席経験している(結果は死球)。府予選決勝ではあの中田翔(現日本ハム)がいた大阪桐蔭を破り、エース植松(現ロッテ)を軸に成熟したチームだったが、初戦で神村学園(鹿児島)に3―6で完敗した。先輩たちの涙を目の当たりにし、リベンジを誓った。そして3年春、自らの力で同じ場所に戻ってきた。(2013年11月5日付掲載 あすに続く)


 ◆陽川 尚将(ようかわ なおまさ)1991年(平3)7月17日生まれ、大阪府出身の22歳。金光大阪では1年夏と3年春に甲子園出場。東農大に進学後、1年秋には東都2部でリーグ3位の打率・333と頭角を現し4年春には打率・450で首位打者に輝いた。1メートル79、86キロ。右投げ右打ち。

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