小久保裕紀が侍ジャパンの監督である理由

[ 2017年1月31日 09:00 ]

会見する侍ジャパンの小久保監督
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 【君島圭介のスポーツと人間】小久保裕紀より経験豊富で、おそらくは勝ち方を知っている監督は多いだろう。日本代表の指揮を執るのは最高の指導者であるべき。それは正論だ。だが小久保が務めるのは誰も経験したことのない「侍ジャパン」の監督なのだ。

 そもそも侍ジャパンとは何か。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に出場する日本代表というのは側面でしかない。その存在は日本野球の「結束」の象徴。12球団と日本プロ野球選手会、つまり労使とそれを支えるアマチュア球界による三位一体の共同事業だ。

 思い出してほしい。小久保が監督に就任したのは13年10月。その頃の野球界がどのような状況にあったか。プロ野球は日本野球機構(NPB)による統一球仕様の無断変更問題に揺れていた。労使の亀裂は深まり、加藤良三コミッショナー(当時)の辞任にまで発展した。

 12年の労組・選手会によるWBC不参加表明も根は同じだった。球界はリーダー不在で長期的なビジョンを誰も提示できなかった。日本代表監督の選任はコミッショナーに一任され、その選考過程も不透明で、名誉であるべき職が「火中の栗」であるかのごとき扱いであった。

 一方で、アマチュア球界との関係は改善の方向に進んでいた。長い断絶状態から13年に学生野球憲章が大幅改定。元プロ野球選手が大学、高校を指導する道が大きく開かれた。アマ側の歩み寄りに対して、プロ側に何が出来るか。その答えが侍ジャパンだった。

 侍ジャパンの運営には12球団だけではなく、アマ関係者も携わる。U−12(12歳以下)から社会人まで代表チームがあり、各カテゴリーの統括団体が主体性を持って参加している。その顔というべきトップチームの監督には知名度もあり、若く、行動的な人物が求められた。そして白羽の矢が立てられたのが小久保だった。

 小久保は05年から4年間、社団法人(現一般社団法人)選手会の理事長を務め、アマ球界との関係改善のきっかけとなった高校野球シンポジウム「夢の向こうに」の成功に尽力した。青学大時代には学生で一人だけ、当時アマ主体だったバルセロナ五輪の野球日本代表にも選出されている。

 名球会のメンバーであり、アマ球界の信頼もある。そして選手会幹部としての功績もあった。バラバラだった日本球界の「結束」を象徴する顔として最適の人物と判断された。選考したのは12球団とアマ球界の代表者で構成された「野球日本代表マーケティング委員会」で、選手会の承認も得た上で13年10月9日、「小久保裕紀監督」が誕生した。

 その後、統括的なシニアディレクターに鹿取義隆、内野守備走塁コーチに仁志敏久らが就任。鹿取はU−15、仁志はU−12監督も兼任する。全世代の代表に一貫した指導体制を作り、代表を強化。全世代が同じユニホームを着用し、一体感も生まれた。NPBは侍ジャパンのビジネスを担う事業会社「NPBエンタープライズ」を立ち上げ、その収益をアマ球界に還元するシステムを構築した。

 日本には優秀な監督が大勢いる。それは確かだ。だが、新生「侍ジャパン」を背負えるのは小久保だった。そして背負ったものはある意味で、WBCの優勝より重い。(専門委員、敬称略)

 ◆君島 圭介(きみしま・けいすけ)1968年6月29日、福島県生まれ。東京五輪男子マラソン銅メダリストの円谷幸吉は高校の大先輩。学生時代からスポーツ紙で原稿運びのアルバイトを始め、スポーツ報道との関わりは四半世紀を超える。現在はプロ野球遊軍記者。サッカー、ボクシング、マリンスポーツなど広い取材経験が宝。

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