刑務所閉鎖後も引き継がれる「若林杯」の精神

[ 2016年9月6日 09:50 ]

奈良少年刑務所の「塀の中」で行われた「若林杯」決勝戦(2009年7月7日)

 【内田雅也の広角追球】現存する国内最古の刑務所、奈良少年刑務所が本年度末(2017年3月31日)で閉鎖となる。

 赤れんが造りの重厚な建物は保存される。1908年(明治41年)に建築された「明治の五大監獄」の一つ。設計した旧司法省営繕課長の故・山下啓次郎氏の孫でピアニストの山下洋輔さんを会長とする市民団体などが保存を求めていた。

 ただ、後世に残すべきは建物だけではない。

 法務省が発表した7月末、若林忠晴さん(77)から連絡があった。「刑務所がなくなってしまうと、あの盾はどうなるのでしょう?」

 忠晴さんは阪神タイガース創設期からの投手で監督も務めた若林忠志(1908―65年)の次男。同じ不安を抱き、同所に問い合わせの電子メールを送信した際、同時に受信したのが忠晴さんのメールだった。

 「あの盾」とは若林が戦後1949年(昭和24)12月14日、奈良少年刑務所を慰問に訪れた際に贈った優勝盾を指している。社会貢献や慈善活動に積極的だった若林は「スポーツ精神で良い青年に更生してください」と激励した。

 後に収容者自治会代表の少年から「感謝文」が届いた。「先生、ありがとうございます。じゅんじゅんとお諭しくださいました。ただ今のお話、さんぜんと輝く優勝盾、私たちはこの有形無形の先生の贈り物を胸いっぱいの感激に燃えて、ありがたく頂戴いたします」

 若林の提案を受け、翌50年、若林杯争奪の所内野球大会が創設された。野球からソフトボールに変わったが、今も開催されている。

 2010年7月、若林杯の取材に出向いた。大会は木工、理容、機械解体など職業訓練を行う所内17の実習場対抗のトーナメント戦だった。

 優勝した第6実習場は電気、通信などを学び、国家資格取得を目指している。総勢54人からメンバーを選ぶのは収容者たち自身だと監督役の刑務官は言った。「チームが勝つためには誰々が出た方がいい、と自然と決まります。大会が近づくと毎日30分間、応援練習をします。工場全体が一つになっていくのです」

 優勝チームの受刑者から話が聞けた。「勝ったのは最高ですが、負けたチームも含め、仲間同士が協力できたことが一番です。こんな所ですから、みんなで助け合わないといけません」。若林が期待した協同や協調の「野球の力」である。

 実は、2009年オフ『若林忠志が見た夢』として新聞(大阪本社発行)連載した。大幅に加筆し、11年には同名の書籍(彩流社刊)となった。

 阪神は同年、「若林忠志賞」を創設。社会貢献や慈善活動、ファンサービスなどグラウンド外の活動で功績のあった選手を毎年、称えている。これまで藤川球児(不登校の児童・生徒、骨髄バンク支援)、鳥谷敬(沖縄の闘病中の少年少女と長年交流。フィリピンの恵まれない子どもたちに靴を贈る運動)らが受賞した。

 さて、問題の若林杯はどうなるのか。同所にメールの後、電話すると、「いま、話し合っている最中です」と結論は出ていなかった。「大会は今年も開きました。ただ、来年からは対象者がいなくなりますので開催できません。盾はいただいた方、若林様ご遺族にお返しするのが一番だろうという話が出ています」

 8月末、忠晴さんに会い、現状を伝えると「盾の存在が忘れられていなかった」と喜んだ。「甲子園歴史館で感謝文と隣同士で展示されれば、父の思いが伝わると思う」。返還となれば、同館への寄贈を考えていた。

 若林賞創設に尽力した当時阪神球団専務の沼沢正二さん(58)は「盾に込められた若林さんの精神を受け継いでいってほしい」と話した。

 あの感謝文には「優勝盾は永く当所に残し、お志を次々と伝えていきたいつもりでいます」とあった。(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963年2月、和歌山市生まれ。小学校卒業文集『21世紀のぼくたち』で「野球の記者をしている」と書いた。桐蔭高(旧制和歌山中)時代は怪腕。慶大卒。85年入社以来、野球担当一筋。大阪紙面のコラム『内田雅也の追球』は10年目。昨年12月、高校野球100年を記念した第1回大会再現で念願の甲子園登板を果たした。

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