興国を全国優勝に導いた村井保雄さん死去 京大でも指揮、87歳 「監督は教育者」

[ 2023年1月17日 11:49 ]

全国優勝を果たした興国のメンバー。左から2人目が村井保雄監督(1968年8月22日、甲子園球場)
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 興国高(大阪)や京大で監督を務めた村井保雄さんが昨年12月8日、死去していたことが17日、明らかになった。遺族が公表した。87歳だった。葬儀・告別式は近親者ですませた。死因は血液中のタンパク質が低下する低アルブミン血症で、大阪市の大阪警察病院で逝った。

 1934(昭和9)年、奈良県生まれ。興国商(現興国)、近大で主に捕手を務めた。子どものころ父親を亡くし、交通事故や足の骨折、肩の故障と苦労が相次いだ。近大監督で興国監督も務めた松田博明氏(故人)は「下積みが長かったが、努力家だった。逆境にくじけない根性があった」と話していた。

 1957(昭和32)年、社会科教諭として母校・興国の監督に就任した。学校の校庭は狭く、近所の公園やグラウンドを借りて練習した。堅い守備と機動力を駆使した野球が身上だった。

 実を結んだのは1968(昭和43)年。春夏連続で甲子園出場。夏の第50回全国高校野球選手権大会で初出場初優勝に導いた。

 準決勝では興南(沖縄)と対戦。我喜屋優(現興南監督)が主将で旋風を巻き起こした相手を14―0で下した。大差がついてもバントを使い「この1点が明日に生きてくる」と厳しさを見せた。同年製作の記録映画『青春』(市川崑監督)で「わたしの顔が鬼監督のように映し出されていた」と後年、苦笑いしていた。言葉通り、決勝では新浦寿夫(後に巨人)に食い下がり、1―0で競り勝った。下手投げのエース・丸山朗投手が6試合中4試合を完封、堅実な守備が光った。優勝後には「部員たちは修学旅行に行っていない」と部長に頼み、3年生全員が九州旅行を楽しんだ。

 同校監督は41年間務め、甲子園大会には春夏4度出場した。その後は高校野球解説者として活躍した。「高校野球の監督は教育者」が持論だった。「野球だけでなく、生活態度などの生徒指導もしっかりできる者でなければならない」と話していた。

 関西学生野球連盟の理事を務め、次男・保信さんが在籍していた京大を指導するようになり、2003年には異例のOB以外から京大監督に就任した。07年まで5年間務めた。10年からは社会人・八尾ベースボールクラブの監督も務めた。

 教え子に益川満育内野手(ヤクルトなど)、岡本一光外野手(阪急)、八木茂内野手(阪急、阪神)、湯舟敏郎投手(阪神)らがいる。  (内田 雅也)

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